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「後ろ向きで後ろに前進せよ」20250323

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「後ろ向きで後ろに前進せよ」20250323

聖書 マタイ福音書二十三章二十九節〜三十六節

 

 後ろ向きの説教は二〇〇八年と二〇一二年の新年礼拝でいたしました。覚えておられる方もいるでしょうが、初めての方もおられます。また、かなり前のことですから、覚えていると言っても確かではないでしょう。ですから今日は、説教題のとおり、後ろ向きで遠慮なく前進することに致します。

 

【ボートは人生に似ている】

 もう数十年も乗っていませんけれど、子どもたちが小さかった頃には月寒公園の池でボート遊びをしました。というのも、ぼく自身が父の膝(ひざ)の間に座らせてもらって、水しぶきを上げないオールの使い方や速く進むためのコツなどを習ったからです。そんな訳でボートが好きになったぼくは小学生の同級生と大阪の万代池(まんだいいけ)で、よくボート遊びをしました。

 映画「ベンハー」のローマのガレー船による海戦シーンで、敵の船腹めがけて突っ込んで行って、船首に付けてある丈夫な飾りで敵の船を破壊する場面さながらに、友人たちとボートの腹にぶつけ合うのです。横からぶつけられたら負けなので、回り込んで逃げたり、船首同士がすれ違うように向きを変えた後、オールが弾(はじ)かれないように、自分のオールを急いで船体に引き込むんです。そんな遊びをしていたのでボート漕ぎは得意でした。

 休日には、子どもや彼女を乗せた下手くそな漕ぎ手で込み合うボート目掛けて進んで行って、相手を怖がらした所ですり抜けるのが楽しみでした。

 この手漕ぎボートの特徴は、なんと言っても漕ぎ手が進む方向に背を向けていることです。もうお気づきでございましょう。今日の説教題である「後ろ向きで後ろに前進せよ」ということです。この言葉の源泉は旧約聖書にあるのです。

 

【小林洋一名誉教授の説教から】

 この教会が所属している日本バプテスト連盟の結成六十周年記念のDⅤDに、二〇〇七年十一月に開催された総会の、日本バプテスト連盟結成六十周年記念プログラムの中で西南学院大学神学部の小林洋一教授がなさった説教が収録されていました。小林先生の言葉を紹介します。

 「未来を予測することはできても見る事はできません。見る事ができるのは過去です。旧約聖書では未来を『ハリート』(後ろ、背後)という言葉で表わします。後ろに未来があるということです。その意味で私たちは未来に後ろ向きに進んでいると言えます。同じ過ちを繰り返さないために、進路を誤らないために、見えている過去の歴史を学ぶことが非常に重要なことになります。」以上です。

 

【砂漠を旅した民の知恵】

 はじめに話した手漕ぎボートがまっすぐに進んでいるかどうかを知る確かな方法は、自分の舟の航跡(こうせき・船が通った後に残る波や泡)を見ることです。航跡がまっすぐ出来るようにすれば真っ直ぐ進みます。過去から未来の方向を決められるのです。過去に未来が見えるのです。

 目印のない砂漠を進んでいたイスラエルの民は、自分たちの足跡が確かな方向を示していることに気付いたでしょう。「未来が背後にある」とは、砂漠を越えた民族の経験を示す言葉だと思います。

 誰にも未来はわかりません。迷っている若者は多いでしょう。高齢者も迷っています。認知症という意味ではありません。しかし、ヘブル語の「未来」のように、過ぎた出来事を見れば、行き先を考えられそうな気がします。

 

【イエスが苦難を選んだ理由】

 昔の預言者たちが、当時の支配者層から苦しめられ、排斥された歴史を知っていたイエスは、自分も同じ目に遭わされることを予知していました。イエスの師匠バプテスト・ヨハネが、政権者の私生活を批判しただけで、王ヘロデの妻の進言によって首を刎ねられたことも記憶に新しい事件でしたから、事態を回避することも出来たはずです。世のリーダーの多くが、必死に苦難を回避するのとは違って、イエスは、苦難を覚悟の生き方を続けました。

 奇蹟を起こすリーダーを庶民は欲しがります。けれども、政治家たちは欲の塊(かたまり)で無能力です。日本の現状もこの通りです。

 ヨハネのように権威を批判するだけでも命懸けですけれども、現状を見過ごすことはできません。

 社会情勢も教会も混沌としています。ぼくは教会がなぜこんな現状になっているのかを考えるために、初代教会を見直しました。

 「多くの人の罪を贖(あがな)うためにイエスが自ら犠牲になって十字架に架かって死んでくださった」という信条を教会は教え広めたのですが、これが大きな間違いであったと気づきました。イエスは進んで犠牲になったのではなく殺されたのです。受難を予測しても生活を変えなかったのは事実ですが、自ら進んで犠牲になったのではありません。

 人は償いや犠牲なしに愛されているというのがイエスが伝えた福音です。その福音の下では誰もが安心して暮らせます。犠牲や償いの供物を要求するユダヤ教の神の下では誰も安心できません。しかし無償で愛されていると教えたイエスの福音は、歳月をかけて練り上げられたユダヤ教神学や政治や経済を完全に否定したのでイエスは殺されました。

 殺されることを回避するために、イエスが犠牲を求める神を民衆に教えることに変更していたら、十字架に付けられることはなかったでしょう。しかし同時に、後の時代に伝えられることも、犠牲を求めないイエスの福音によって救われる人も出なかったのです。たとえ殺されるとしてもイエスは生き方を変えなかったのは事実です。しかし、決して自ら進んで十字架にかけられたのではありません。

 イエスが救い主と告白される真の理由は、ユダヤ教の神学による縛りから民衆を解放する福音を伝えたからです。そうだとすれば、イエスをすべての人の罪の身代わりに犠牲になった小羊に仕立て上げたキリスト教の神学はイエスの福音と関係ありません。これに気づくことが重要です。

 イエスの舟に乗船した弟子たちは、イエスの死後、弟子たちだけで、目的地を誤った教会を設立したと考えられます。

 

【ぼくたちは】

 二千年の伝統を持つ教会組織と神学を出発点に戻すことなどできません。けれども、過去の航跡を真っ直ぐ見ながら、「犠牲なしで愛されている」というイエスの福音を表現する目標に向けて、後ろ向きで後ろに前進するように日々の舵取りをしていきたいと願っています。こんな説教をすることができるのは、戸惑いながらも十九年間も聖書を一緒に読んで福音書の中のイエスについて、この教会(あなた)が共に考えてくださったからです。この先どれだけできるか判りませんが、これからも後ろに残されたイエスの福音を真っ直ぐに見て、後ろ向きで後ろに前進して参りましょう。

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