説教の題名を押して下さい
「どん底の経験ありますか」20210418
「どん底の経験ありますか」20210418
人間観察をしていますと、どんな人も、一所懸命に生きようとしていることが判ります。
お腹が減ったら食べて飲んだりしようとしますね。なぜなんでしょう。たぶん、知りませんけれども、「なんとしても、生き続けよう」と思うようにプログラムされているからです。
そのためには、食料を手に入れる必要があります。できれば安定して食料を得たいものです。そのために脳を発達させた動物が人です。
人には鼻はありますけれども、獲物をかぎ分ける嗅覚も発達させませんでした。獲物を逃さずに捕らえるための鉤爪も、夜でも見える目も、追いかける足の速さも、大きな相手と渡り合うための体格も筋力も、泳ぐ力も、そのような身体能力は、ぜんぶ未成熟です。人はこのような、身体能力を発達させることに精力を注がないで、脳を発達させたんです。
計画を立て、協力して、獲物を探し、追い詰め、道具を使って仕留めて、協力者と分ける。集団を作って危険を回避し、意思を伝え合うために言葉を作り、過去の経験さえ利用しあえるように、書き残す方法や道具を発達させることができるようになったのも、脳を発達させたからです。そうだとすれば、人の脳は猛獣たちの牙や爪や腕力のように、狩の道具だと言えるでしょう。今も、そのために脳を使い、技術を発達させ続けているのだと思います。
そのように、脳を発達させた人が増えすぎたんでしょう。頭の良い人が勝ち残るようになったんですね。しかし、同じようなグループがたくさん出来たために、獲物の奪い合いや、狩場すなわちテリトリー(縄張り)の奪い合う抗争が生まれてしまったのだと思います。
昔の戦争は、力の強さや数の多さが勝敗を決めたんです。その内に脳を使って技術や技能を発達させた者たちが勝つ時代になったようです。それも近年までのことです。これからはもっと脳を使う戦いへとシフトして行くでしょう。
たとえば、武力を使って奪いに行かなくても、別のグループが溜め込んだ収穫や富を、脳で作った仕組みと、コンピュータのような道具を使って盗み出せばいいだけです。これは、すでに現実の脅威になっています。
人が何をするにも、その根底には、より多くの美味しい獲物を楽をして食おうとする動物の本能があります。ですから、このような奪い合いは無くならないでしょう。
ただし、このようなことを最終目的にする時代の終焉(しゅうえん)は見えています。なぜなら人どうしの殺戮が繰り返されるようになったからです。第一次世界大戦、第二次世界大戦、今は第三次世界大戦が始まっております。このままでは人類が幸せになることはないだろう、と想像できます。現在のような殺戮(さつりく)を繰り返さない世界を実現しようとすれば、動物の本能を乗り越える脳へと発達させるしかありません。そういう時代に来ています。
自己中心的な生き方が危険であることを感じたのがイエスです。そこで、奪い合う人間社会の掟(おきて)に従っていちゃならないと思ってイエスは語り出したんだと思います。とは言え、社会構造を一気に変えることなどできません。できることは、「食い物にされない」生き方をしよう、と教えることぐらいでした。だから、社会の底辺で生活している人に語りかけたんでしょう。それがイエスの福音宣教だと解釈しています。
宗教も弱肉強食を促進する道具であることに気付いたイエスは、当時のユダヤ教の指導者たちにも、別の社会のあり方を迫ったんでしょう。
罪を赦してもらうために犠牲が必要だという考え方をもっているユダヤ教も、全ての人の罪を贖う犠牲にイエスを仕立てたキリスト教も、同じ方向性を持った弱肉強食の社会構造です。これに対して、イエスの生き様は全く逆で、弱者の罪を「振り払う」教えです。
イエスの教えに感動した人もいましたが、イエスの宣教は権力によって叩き潰されました。力には逆らえない、と思い知らされて多くの人は、希望をなくしてしまったようです。
しかし、イエスの意思は、必要不可欠なもので、当然の帰結ですから、けっして消えてなくなるものじゃありません。
先週は師匠イエスが殺害されたことによって、希望を打ち砕かれた弟子二人が、エルサレムに背を向けて歩んでいた時に、イエスの生き様が蘇った話をしました。今日のために選んだのは、マグダラのマリアがイエスの生き様に気づいた、という話です。
【見なくていい】
マグダラのマリアが、復活したイエスを「見た」という逸話をヨハネ福音書は伝えています。こんなふうに逢えるなら、わたしも逢いたい、と思う方もおられるでしょう。しかし、「見たから信じたのか。見ないで信じるものは幸いである」(ヨハネ二十章二十九節)とヨハネは、復活のイエスに言わせています。
四十日間だけ、姿を見せた復活のイエスを見ました、と弟子たちはいいます。だから復活のイエスを見た弟子たちの作った教会は偉いんだ、と主張するかのような教会に対して、引け目を感じなくていいんだよ。むしろ「見ないで信じる者が幸いなんだよ」と、ヨハネは自分の教会の人々を励ましたんでしょう。
【マグダラのマリアを中心に】
ヨハネ福音書は、弟子たちを差し置いて、これ見よがしにマグダラのマリアを登場させます。どの福音書においても、弟子たちではなく、まず女が登場するのは、それが、隠し用のない事実だからですが、この逸話もフィクションです。
イエスが十字架上で殺されてから三日目、日曜日の夜が明けてすぐにイエスの遺体を納めた墓に一番に着いたのはマグダラのマリアです。しかし、墓に到着したときには、すでに墓の蓋(ふた)は開いていて、イエスの遺体は見あたりませんでした。驚いたマリアは、すぐ隠れ家に戻ってペトロと、もう一人の弟子(ヨハネ)に伝えました。二人の弟子は、急いで墓まで走りますが、イエスの遺体がないというマリアの言葉を確認しただけで「家に帰って行った」と書いてあります。そんなことあり得ないと思えます。弟子たちは腑抜け(ふぬけ)であって、何の役割も果たさなかった、という弟子批判が書かれているんでしょう。さらに、ヨハネ福音書は、男たちを帰してしまい、ただマグダラのマリアだけが墓の前にいるというシチュエーション(場面設定)を作り上げています。マグダラのマリアだけを墓の前に残し、周りを暗くして、ここにスポットライトを浴びせ、焦点を絞(しぼ)ります。ヨハネの趣向(しゅこう)です。
最愛の人を亡くしたマグダラのマリアは、途方に暮れて、泣きながら立ち竦(すく)み、その場から離れることもできません。遺体がないという事実を受け入れることができなかったマリアは何度も墓を覗きなおします。
【質問に苛立つマリア】
大切だった人の、言葉や顔の表情や仕草や息使いまでがよみがえってきます。
マリアが落ち込んでいた時には、必ずイエスは「後ろから優しく、『マ・リ・ア』と呼びかけてくれた。そんな思いがマリアを包みます。