説教の題名を押して下さい

「大切なのはあなた」20210516

14EF81C5-DCB7-4347-8C39-1C626724215A.jpeg

「大切なのはあなた」20210516

聖書 マルコ福音書 二十三節〜二十七

 

 家や伝統や社会組織や名声なにかしら大切なものを守らなければならない、と人は教えら育ちますけれども、ぼくにとって一番大切なのは、近くに居てくれるあなたです。あなたが元気で楽しくしていくれるならばそれが一番うれしいことです。

 あなたにも一番大切に思っている誰かがいるはずだと思います。一番大切にしなければならないのは、お金や物や立場などではなく、「ひと」です。そういう人との関係を大切にして、その人を大切にするために生きているのが人間です。

 どんな生物でも、孤立して生きていないように、どんな生物も、関係を大切にしていると言って過言ではありません。

 そもそも関係のない所で命は生まれないのですから、生物にとって一番大切なのは関係なんです。

 人間は社会組織を発展させましたから、社会での立場を、一番大切だと教えられていますけれども、まずは、手の届く範囲の人間関係が一番大切であるに違いありません

 隣人との関係が成り立たなくなると、人間は何かが壊れて、社会的な立場も失うことになります。社会的に成功したように見える人でも、犯罪に手を染めて、完全に身を持ち崩す人がいますように、人の基本を支えているものを失くして生きていないのだと思います。

 それほど大切な人間関係を壊すものすべてを比較の対象にする文化であると思います。文化とは言語、生活習慣、宗教など様々な生活様式ですから人間が社会生活をする上で便利な道具でありますけれども、文化に影響され過ぎますと、人間の本質が忘れられてしまうように感じます。

 たとえば、家族のような基本的な人間関係よりも組織大切にしなければならないという教えがあります。熱血社員を育てる会社やカルト的な宗教独裁的な国家なども、個人個人引き離し、集団に同化させようとします。分断された人は、壊れていくものです。

 かたよった文化に影響されていないように思えても、社会全体が持っている文化に大いに影響されていますから、苦しみ壊れていく人がいます。

 日本のような一見穏やかな社会でも、「頑張れ」という一言によって抑圧されている人がほとんどです。

 「頑張ったか」という一言によって、人は比較評価されています。そんな言葉が心身に染み込んでいるために、自己評価することが癖になっているように見受けられます。

 その結果、自分を大切だと思えない人が多くいるのだと分析しています。だれもが、他人から高い評価を得たいがために「頑張っている」んじゃないでしょうか。

 こんな日本文化の中にあって、この文化をちょっと否定するようなことを今日は言いましょう。それは「あなたは、頑張れなくても、大切なんだということです。

 日本文化に逆行するように聞こえるかもしれませんけれども、そうではありません。なぜならば、この文化の最も根底にある真実だからです。まずは「頑張らなくても」「頑張れなくても」あなたは大切なぼくらの一員であるというのがぼくらの出発点であるからです。このことが出発点になっているから、何もできない赤ちゃんも老人も生きていけるんです。

 

【イエスは弟子たちを弁護した

 イエスの下に集まった弟子たちは、特に取り柄のない人たちだったと思います。ユダヤ文化の余され者だったように思います。なにしろ、イエスもヨハネの下に行って始めた修行を途中で断念したようなひとです。そういう意味では師匠も弟子も余され者だったと言ってさしつかえないでしょう。

 さて、モーセの十戒に、安息日(あんそくにち)に仕事をしてはいけないという命令があります。ある安息日に、この命令に違反している、と律法の専門家から弟子たちが訴えられました。

 麦畑を歩いていた弟子たちが、麦穂を摘んだからです。その行為、仕事をした、とみなされて訴えられたんです。

 そこで、イエスは、この訴えが的はずれであると、言い返して弟子たちを弁護しました。

 反論の根拠としてイエスは過去英雄ダビデ事例を持ち出ました。その内容は、緊急時であったという条件の下で祭司しか食べることを許されていないお供えのパンのお下がりダビデと家来も食べたサムエル記上二十一章一節〜七節という古事ですこの具体的例律法硬直したものでないことを示しています。そして最後にイエスは安息日に働いてはならない」という命令は人のために定められたのだ、という律法の根本原則を述べました

 律法を守ることに縛られるために人間がいるのではなくて、端的に言えば、律法は弱い人を守るためにあるのだ、と教えたのです。

 確かに律法は、人の生活を助けるためにあるものですから、柔軟使用されていいはずです

 律法を言葉通りに守ろうとすれ人の営みを邪魔するような場合もある。そんな時には、状況で判断して良いとイエスは伝えています。

 お腹が減って、極限状態にある人を助けるためパンがなかった時に、神にお供えしたパンのお下がりならある。これを食べていいのは祭司だけだということになっていましたけれども、祭司ダビデにのパンを分けてあげという物語です。律法の言葉に違反しても、その祭司は、ダビデ一行を助けることを選んだということ、そしてそれが、現代に続くダビデを助けたんだ、ということです。お下がりのパンをいただけなければダビデが王座に着けなかったかもしれません、大切なことは人を助けるということです。困っている人や弱っている人を助けるために律法が作られたという律法の精神を、この祭司は心得ていました。

 

【安息日律法の意味

 十戒という律法がなぜ作られ、なぜ大切にされているかというと、弱い立場の人を守らなければならないという現実があったからです。

 そういうことに気が付いた古代の先人たちがこれをまとめて、神からの命令として残したのです。なぜ神からの命令だと言ったのかといえば、どんなに偉い人や王様のような支配者でもこの命令に逆らってはならない、と示したかったからでしょう。この命令があるということは、実際の生活の場では、これする人が多かったということを暗示しています。つまり下級の使用人や奴隷たちを休みなく扱き使う(こきつかう・容赦なく激しく使う主人たちが多かったという社会状況が現実にあったということを物語っております。

 そこで、社会全体の規範として一週間に一日は休みなさい。あなたも、あなたの下で働く者も家畜も休ませなさい。それがあなたの生活を末長く安定に保つために必要なことですよ、教えたのです。これを具体的に運用するために、一週間に一日を安息日にするという制度を作ったわけです。しかし、どんな制度にも抜けはあります。「仕事はしないでいいけれども食事の用意ぐらいしてくれてもいいやろう」という主人がいたので、「いやいや食事の用意は仕事と認定する」なんていうことを研究する律法学者たちが生まれたんでしょう。

 料理をするにもお茶を飲むにも火を使うから、火を使ってはならないということにすればいいんだ、とか、遠くに水汲みに行かされないために、何歩以上離れたところに出歩いてはならない」などの、細かな規定を作ることになったんでしょう

 それなら既定の距離の一歩手前までは歩いていいんだとか、法の意味を解さないで言葉だけ守ればいいだろう、という人も現れますし、ちいさな出来事を律法違反だと言って騒ぎ立てる人も出てくるわけです。

 人と人の間隔は二メートル以上離しましょう。近い場合はアクリル板を立てればいいだろう、とか、女は他の男に顔を見せてはならないとまでは言いませんけれども、全員マスクを付けてください。とか、帰ったらすぐに手を洗いましょうというのも、市場から帰ったら身を潔めてからでないと食事してはならないという律法に似ています

 近年出来たこういう社会規則に従わない人を訴えるとか仲間外れにするような人も多くなりましたね。いわゆる、567警察という自警団ですけれども、弟子たちは、まさにのような人から言いがかりをつけられたようなものです。

 あまりに細かい規定を作っても生活しにくくなるだけで、それが弱いものを守ることに役立たなければ、細かい規定なんか意味ないどころか、弱い立場の人を身動き取れない状態に縛り上げてしまうことにるだけです。昔からそんなことが平気で行われていことが判ります。

 安息日を守れ」という法律の本来的な意味は、弱いものを守るため法律を守れということです。

 そうであるにもかかわらず、律法の精神からかけ離れた解釈をする人たちがいることを嘆いてイエスは律法の本質を大切にする生き方をみんなに教えようとしたんだと思います。

 

弟子たち大切にするのが律法

 お腹を空かした弟子たちが、歩きながらちょっと麦の穂を摘んで、手揉みして食べたところで、労働したことでも強制労働させられたことでもありません。

 摘み食い(つまみぐい)も許さないほどに文字通り厳格に律法を守ろうとする真面目さは判りますけれども、文字通りの厳格さでは弱い人を守れません。中心にされるべきは「ヒト」です。

 法律そのものが大切なのではなくて、法律を作ってまでも大切にしないといけないのは人です。弱い立場の人を大切にするものとして、律法は大切にされなければならないのです。ですから一番大切なのは弱い立場の人なんです。

 頑張って律法を守らなければ人として評価されない、などということはありません。けれども、人を守れなければ、律法じゃありません。

 近隣諸国の支配者が自分を守るために自分勝手制定した法律なんて言語道断です。誰を守る為に法を造ったのか。誰を守る為に法を使うのかという目的が大切です。

 

【ぼくたちは】

 あなたが大切だから、あなたのために安息日は決められたのです。法律を守るためにあなたがいるのではありません。あなたを守るために法律があるのです

 弱者を守る律法文化は大切にしなければなりません。人を守るため法律だから大切にしなければなりません。しかし、弱者を守らないような法律なら不要です。

 イエスにとって律法弟子たち責めるものではありません。律法は弟子たちを守るためにあるのです。イエスは、ユダヤの文化よりも弟子たちを大切にしました。ぼくにとっても大切なのはあなたです日本の「頑張れ」文化よりも大切です。たとえ「頑張れなくても」そのままのあなたが大切」なのです。

 

1
Today's Schedule
2024.05.03 Friday