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「弟子にはなりません」20200712
「弟子にはなりません」20200712
聖書 マルコ 一章十六節〜二十節
イエスの福音宣教は、当時の人々には通じませんでした。イエスは極めて論理的に話しておられたんですが、問題にしている次元が違うために、歯車が噛み合わないというか、立っている足場の基礎(ベース)が異なっていたために、イエスが主張したことをほとんどの人は理解できなかったようです。
イエスの周りにいた当時の人々は、ユダヤ教の信仰とそれによって形成された生活習慣にどっぷりと浸かっていました。ユダヤだけじゃなくて、世界中のどの国、どの地方に行っても、平凡な人々の生活は、宗教によって作り出された慣習そのものである、と言っても過言じゃありません。
イエスの周りには熱心なユダヤ教徒がたくさんいました。そういう人々に対してこそイエスは自分の考えを伝えて、宗教の呪縛から解放したかったはずです。しかし、宗教に熱心な人には、取り入る島も無かったようです。
宗教に根づいた生活をしていたほぼ全ての人が、イエスの言わんとすることを理解できなかったのも無理ありません。土地に根ざした宗教から解放された、自由人でなければ、イエスが伝えたかったことを、理解できないんでしょう。当時は、そんな人などいなかったに違いありません。
初めは、シナゴーグと呼ばれるユダヤ教の礼拝堂で自分の考えを発表したイエスは、人々から冷たい扱いを受けて、追い出されてしまいました。そのため、イエスは礼拝堂の外、街角や町外れの野原や山裾で話すことしかできなかったように思います。
それじゃイエスの言葉は誰の心にも響かなかったのか、と言えば、そうではありません。
礼拝堂の外には、すでに、既存の宗教の枠から追い出された大勢の人々がいました。彼らは既存の宗教によっては救われなかった人々で、社会から除け者にされていました。しかし、それゆえに、イエスの福音を受け入れる体勢(姿勢)ができていた、と言えるでしょう。
このような人々は、イエスの話に心を動かされ引き付けられたんだと思います。なぜなら、イエスの発表したことは、礼拝堂では聞く事のできない話で、人々は受け入れられ、慰められたからでしょう。
イエスの弟子と呼ばれるようになった人々も、実はそのような人々だったに違いありません。
【弟子たちは余され者】
今日は、イエスの弟子と呼ばれる人たちがイエスから初めて声をかけられた時の逸話を読んでもらいました。この人々は、決して社会で言う優れた人々じゃありませんでした。それどころか、社会の余され者、はぐれ者だったとぼくは考えております。なぜそんなふうに言えるかと申しますと、仕事の途中で、大事な仕事道具をほったらかしてイエスに付いて行ったと書いてあるからです。
初めてこの逸話を読みました時には、置いていかれた、舟や網はどうなるんだろう、とか、お父さんはどうなるんだろう、などと心配しました。それほどのことを平気でするくらいですもの、とてもじゃありませんが、しっかりした人々だったなどとは考えられません。いい加減な人々だったと思います。
ところが、教会では、召命に応えるためには、稼業も捨ててすぐにイエスに従った弟子たちとして褒めちぎられています。同じ出来事に対する解釈が、異なる立場によって、弟子に対する捕らえ方が全く逆になっています。おかしいでしょう。
【牧師になるために必要なこと】
話は変わりますが、日本バプテスト連盟では、年に一週間、神学校週間というものを設けております。牧師になろうとする人が、聖書やキリスト教について勉強するために行く学校には、大学の神学部や、専門学校的な神学校などいろいろあります。それらの運営や、そこで勉強している学生(神学生)の生活を支援するために、全国の壮年会の連合が中心に活動して特別献金を集める週間ということになっております。今年はもう過ぎてしまいました。
ぼくも神学校で勉強してきたんですが、初めは連盟と関係のない東京キリスト教短期大学(TCC)というところで、その後に日本バプテスト連盟の教派神学校である西南学院大学神学部で勉強したんです。中でも、東京の神学校の入学試験を受ける際に苦労したことをお話ししたいと思います。
入学試験については心配していませんでしたが、一つだけ苦労したことがあります。それは提出書類の中に、自分はどのように神様から召命(しょうめい)を受けて献身(けんしん)する決意をしたのか、という一種の信仰告白文を提出しなければならなかったからです。そしてそれが最も重要視されるということでした。
【召命とは怖い言葉】
伝道の働きのために神様から呼び出されることを教会では「召命(しょうめい)」英語ではコーリング(calling)と言います。この言葉は強制力を持った非常に怖い言葉です。たとえば、裁判所が出廷を命じる時の召喚(しょうかん)とか、支配者が兵士にするために庶民を呼び出す時の召集に使う言葉です。招集された方は、納得しようがしよまいが、徴兵命令には従わざるを得ない。従わなければ厳罰に処せられる。そんなことを示す怖い言葉です。
そして、わたしは神様から召集され、それに応えて献身(けんしん)します、と言わなければ、神学校に入れてもらえないんです。今では、学問として神学を学ぶために、入学が認められる所も一部ありますが、基本的には昔と変わらない、と思います。
そこで、ぼくも、そのために聖書を読んで、今日の箇所を選びました。そして、イエスが弟子たちにお語りになった言葉は、自分にも語られた言葉だと信じました、てなことを書きました。
今だから正直に申しますと、ぼくは神様やイエス様から召命の言葉を聞いておりません。言い逃れになりますけれども。どんな牧師も神学生も、神やイエスから直接に召命された者などいません。そのはずです(笑)。みなさんに聞こえない神の声が、牧師や神学生にだけ聞こえるなんてことはあり得ません。本人が勝手にそう思い込んだ、だけのことです。
もう九年も前になりますが、二〇一一年八月二十八日に、今日読んでもらった箇所から「召命じゃなく、お誘いです」という題で説教しております。その際にも言いましたように、支配者が兵隊を召集する時に使う「召命」という言葉を平気で使う教会は、ちょっとズレていると思います。
日本に徴兵制を敷こう、という議論が出たら、真っ先に反対の声をあげるのは教会だと思います。そんな教会が「召命」なんて言葉を使うのは、どう考えてもおかしいです。国の支配者が徴兵することは許さないけど、神様なら、何をしても良い、なんて考え方は矛盾しています。
神が隣国に攻め込めと命令なさったから攻め込む。神が敵を殺せと命令なさったから殺す。そういうことなんでしょう。だから神様に従います、と告白している人々は戦争に駆り出されやすいんです。
神の召命には従う、という考えは、その志が立派に見えますけれども、とても危険に満ちています。しかも神からの召命を受けた、と言えるのは本人だけで何の保証もありません。神の声は誰にも聞こえません。神に従おうとするのは危険なことです。
【弟子ではなかった】
後の時代の教会で、イエスの弟子とか十二使徒と呼ばれるようになった人々がいます。けれども、イエスは彼らに「弟子になれ」と召命したわけじゃありません。イエス自らは彼らを「弟子」と呼んでいないことからも判るように、彼らは「ついておいでよ」とイエスから「お誘い」を受けた程度です。
最近言い続けていますように、天からの声は聞こえません。アブラハムもモーセもイエスも、神から徴用されたんじゃありません。みんな自分で考えて行動した人たちです。しかもイエスは、権威主義の宗教を認めていません。上からの命令や神の命令を認めなかった、そんなイエスが、弟子を徴用したとは思えません。たまたま、通りがかりに出会った人々を徴用して弟子にした。なんて、とてもじゃないがあり得ません。イエスは彼らを弟子にするために徴用なさった、などとは聖書にも書かれていないんですから、「弟子たちは召命を受けた」なんて言う解釈は教会の思い込みか、でっち上げです。
【社会構造を打ち破った】
とはいうものの、職業(するべき職務)は、上から与えられるものだ、という考え方は、天職という言葉に現れていまして、今も用いられます。
当時は、家業を継いでいるか、あるいは上からの命令で働いている人々が多かったはずです。それが天職です。ところが、そのように伝統的な職業に就いている人々に、イエスは誘いをかけたんです。気軽に話しかけたつもりであったとしても、当時の一般社会の常識に対する立派な反逆だったと思います。
イエスご自身も大工の長男でしたから、当然大工の道に進むべきところだったでしょう。ところが自分に目覚めたイエスは、何の権威にも頼らずに、シナゴーグに入って勝手に教え始めています。当時は、神に喜ばれる人間になるために努力しなければならないと教えられていた人々に、イエスは「神の国は近づいた」と教えたんですから、奇想天外過ぎて、全く通じなかったでしょう。『あの男は気が変になっている』と言われて、身内の人たちはイエスを取り押さえに来た(マルコ三章二十一節)という逸話も残されています。
イエスは、漁師に声をかけ、嫌われ者の税金取り立て人にも声をかけました。さらに、熱心党と呼ばれるテロリストのような思想の男(マルコ三章十八節)も仲間にいました。立派な仕事をするために弟子を選ぼうと思う人は、わざわざこんな人々を召集しないでしょう。彼らは勝手に集まってきたロクでもない人たちだったんです。そう思いませんか。
誘いを受けた彼らは、軽い気持ちでイエスに付いて行った。その程度です。当時の社会常識を無視して大胆な行動を取れたのは、彼らが立派な人だったからじゃなくて、むしろ社会から余された者だったからでしょう。天からの召命を受けたから、身を捧げる献身の決心をした、というのではなく、ちょっと違うイエスに、付いて行きたかっただけでしょう。
権力を振りかざして、できないことを約束させたり、命令に従わせるなんて最低です。そんなものは長続きしません。信者でも聖職者でも、途中で辞めた人がいっぱいいるのがその証拠です。
【ぼくたちは】
命令とか約束には、何の実力もありません。それは魅力のない人がすることです。イエスは権威を振りかざしませんでした。そうではなくて、イエスは魅力を振り撒いただけです。そんなイエスに仲間たちも魅力を感じたんでしょう。
ただし、イエスの立ち位置と福音を理解できなかった弟子たちは、既存の宗教から離れることができずに、後に設立されたキリスト教会を権力と結びつけてしまいました。
ぼくたちは、弟子のようになりたくありません。イエスに誘われて仲間になった頃の余され者たちのように、初心に帰って、気負わずに、イエスの仲間になりたいと思います。