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「見劣りしない自分でいましょう」20200105

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「見劣りしない自分でいましょう」2020年1月5日

聖書 マルコ 十 一節〜 二

 

 クリスマスも終え、年末行事も終え「ホッとして新年を迎えることができました。いやいやいやボーッとしてんじゃなくて、ホッとして、ゆったりと新年を迎えた、ということです。

 しかし、ホッとしすぎて、新年の説教作りになかなか取りかかれませんでした。やっぱりボーッとしてたんでしょうか。

 

【人生はリセットできない】

 毎年、年の初めには「今年こそ」何かが変わるかのように言われますが、実際にできるの暦(こよみ)掛けえるぐらいです。ゲームのように、リセットできるものは何も無いので、今までの経験を基礎にして、これからを繋いでいくだけです。

 楽しい経験も悲しい経験も、自分の身にずっと付いて回るもんです。それを引きづりながらぼくらは生きているんです。それでいいんです。ジタバタしなくていいんです。

 経験したすべてのことの上に、今の私があるんですから、自分の過去を否定しちゃいけませんよ。そんなことをすれば、今の自分居場所がなくなります。今の自分を認めてあげるためには、過去の自分も、そのまま認めてあげましょう。

 過去の自分を、好きでも嫌いでもいいけれど、過去の自分を否定しちゃいけません。「そうだったよなあ」って認めてあげましょう。そして、嫌いなら、過去のような自分にならないようにしようと思えばいいですし、好きならは、これからも、そうなるようにしようと思えばいいだけです。何れにせよ、そういう意味で、過去の経験を土台にして、今年の自分を作り上げていきましょう。

 

【神様に囚われない

 さて、そんな訳で、ぼくも、新年最初の礼拝に向けて、過去の説教を読み直してみました。そして、かなり昔から、神様に頼らない説教をしていたことを確認しました。いつも自画自賛なんですが、なかなかいい説教をしてきたんだなあって感心しました。

 自画自賛できることを幸せだと思っています。もっともっとそうなっていきたいと思っています。

 しかし、神様に囚われている人は大変です。今日も教会に来る途中で、北海道神宮に参拝する多くの人々の車列を見ました。普段は宗教など忘れている人々が、初詣なさいます。日本には八百万(やおよろず)の神様がおられるんだそうです。

 落語に、貧乏神という噺(はなし)があります。貧乏にも神様がいるというのは面白い考え方ですね。落語の貧乏神は気の弱い神様でして、取り付いた乏人に金を貸さなきゃならない羽目になり、そいつを食べさせるために内職までする、という面白い話です。そこまでしてくれるんやったら、貧乏神でもいいかな、と思いますけれども、できることならば、福の神に近くにいて欲しいんであります。しかし、たぶん、貧乏神のほうがたくさんおられるんでしょう。困ったもんであります。

 疫病神(やくびょうがみ)や死神という言葉もあります。なんでも神様のせいにするために、たくさんの神様を作ったんでしょう

 ところで、福の神といえば、恵比寿大黒様です。大阪では「えべっさん」と言うのでありますが七福神の恵比寿様をお祀りしている今宮戎(いまみやえびす)神社十日戎(とおかえびす)という祭りには三日間で百万人ほどの参拝者があると言います。商売繁盛させてください、とお願いする神様ですが、一番繁盛しているのは「えべっさん」を抱え込んでいる神社です。

 というのも、一般的な賽銭箱には、十円入れる人が一番多いんだそうですが、えべっさんの賽銭箱には、一万円札がたくさん入っております。

 この時期に特設されています賽銭箱は、みなさんがよく知っておられるような、中の見えない賽銭箱じゃありません。大人が何人も入ることができるプールのようで、中も丸見えです。賽銭の額を争う気持ちを刺激するためでしょうか。たくさん入れる方も多いんです。

 大阪人はケチだ、などと思われていますけれども、そうじゃありません。必要があると感じた時には、気前良く出すのが大阪人の気質なんでございます。気前良く出せるように、普段は節約するケチだと思われているだけございます

 まあ、なんだかんだ言いましても、一年の福を数万円程度のお金手に入れようというんですから、所詮、欲深いケチかもしれません。

 

【献金を強要してるんじゃない】

 今日読んでもらった聖書の箇所の直前に、貧しい未亡人の献金にイエスが驚いた、という話があります。

 神殿献金するための専用の硬貨で、ジャラジャラと音を響かせながら、賽銭用のラッパ管にお金を流し込んでいる金持ちと、その日の持ち金を全部捧げた貧しい未亡人を見たイエスが、「ちょっと、見たか。あの未亡人は、だれよりもたくさん入れよった有り余る中からいれたんやないで、生活費を全部入れよったんやでえ」と驚嘆して、弟子たちに語りかけました

 持ち金を全部入れろ、という意味に取れば怖い話です。昔はそんな説教も実際にあったようですし、持ち金がなくなって、バスに乗れずに歩いて帰ったという話を聞いたこともあります。こうなると宗教が恐れられるのも解ります。

 

本当は怖い坊主捲り(ぼうずめくり)

 前にも話しましたが、みなさんは坊主捲りをご存知でしょう。広辞苑によりますと「百人一首の読み札に書かれた絵を用いてする遊戯。裏返しに重ねた百枚の札を順次一枚ずつめくり取り、坊主の絵を引いた者はそれまでに取った自分の全札を場に出し、姫を引けば場にある札を自分が取るやり方で、最後に手元の枚数の多寡(たか・・・多いか少ないか)を競うもの」とあります。

 坊主が来たら、手札を全部持って行かれる、ということで、ゲームとしては、単純明快で面白いですけれども、宗教批判が隠されているのかも知れません。

 しかし、イエスがそんなことを要求するはずありません。もしも、ここにそんな要求が書かれているのだとすれば、イエスの要求じゃなくて、教会の要求が書き込まれただけでしょう

 

【神殿に魅せられていてはならない】

 ユダヤ人の過越祭(すぎこしさい)を迎えるに当たって、イエスと弟子の一行がエルサレムに登った時の様子が福音書に紹介されています。

 過越祭の時期は春ですけれども、民族の新たな出発を祝う祭ですから、新年を迎えるようなもんです。ですから、日本人の今の初詣とは違いますが、それと似た感覚で、イエスと弟子の一行はエルサレムにあるユダヤ教の本山の神殿に詣でたようなもんです。

 どんな宗教にも、中心地を示すものがあります。ユダヤ教の聖地はエルサレム神殿です。

 西本願寺、東本願寺、バチカンの聖ピエトロ寺院、春日大社、出雲大社、伊勢神宮、みんな大きくて立派に作られております。当然、エルサレム神殿も立派だったでしょう。

 

【神殿も崩壊する】

 お伊勢参りに来た田舎者のように、弟子たちは、神殿の荘厳さに感嘆の声をあげております人は荘厳なものに弱いです。自分自身を小さく評価しているもんですから、大きくて立派なものに圧倒されるんでしょう。

 そういう人間の弱さを利用する支配者や宗教が大きい入れ物を作るんです。そんなものにごまかされちゃいけません。人間は大きさで比べられるようなもんじゃありません。「栄華を極めたソロモンでさえ、一輪の花ほども着飾ってはいなかった」という言葉もあるように、一つ一つ、一人一人が大切なのだというのがイエスの主張です。

 確かに「この石の一つも他の石の上に積み残ることはないイエスは、弟子たちに言います。神殿が完全に破壊される時が来る、なんていうのは、とても不吉な予言ですが、実際に、イエスと弟子たちが見た神殿は七十年に破壊されました

 みんな豪華なものを求めるようになりました。昔とはえら違います。イエスの弟子たちも、昔はも持たない人々でしたけれども、教会を立ち上げてからは、マルコ福音書の著者が批判したくなるほどの金持ちになっていたような気がします。

 賽銭をたくさん捧げている金持ちというのは、実は、立派な神殿に見とれ神殿の荘厳さという見せかけに弱いイエスの弟子たちということになるんじゃないでしょうか。すなわち、見せかけの長い祈りをして、やもめの家を貪ってい律法学者のような人々、あるいは、賽銭箱に大袈裟に捧げものをしている金持ちのような人々というのは、実は、弟子や弟子の後釜(あとがま)たちのことじゃないか、とぼくは思った訳です。

 有り余る中から、これ見よがしに、わざとジャラジャラと音を立てながら賽銭を投げ入れた金持ちようにじゃなくて、この未亡人は、彼女の一日の生活費を全部ささげたことに、イエスが感嘆の声をあげたと言うのです。

 金額が多ければ良いという問題でなく、百パーセントが良いという問題でもないでしょう。この物語は、金持ちと未亡人の献金を比較する物語じゃありません。金持ちの生き様を批判ために書かれた、と考えれば解りやすいでしょう。

 未亡人は金持ちたちのおかしな生き様を際立たせるための脇役だと考えてみてください。金持ちたちがやっていることの、ちぐはぐさが明確になってくるでしょう。

 ただし、マルコが福音書を執筆した頃を、七年以降だと仮定すると、イエスが殺害されてから、ざっと十年経っているわけです。しかも神殿は破壊されているわけですから、献金をささげる金持ちと未亡人の話には現実味がありません。

 マルコが本当に批判したい人たちというのは、神殿にいた金持ちじゃなくて、金持ちの仮面を被せられて物語に登場している人物だと考えられます。すなわち、マルコ福音書が書かれた頃の教会の中では、イエスの弟子たちが、神殿にいた金持ちのように振舞っていたんじゃないかと思います。教会で弟子たちの生き様を批判するために、マルコが福音書をいたことを考慮すれば、金持ちとは教会時代の弟子だと理解できるはずです。

 

【ぼくたちは】

 大きいのがいいとか立派なのがいいとか、強いのがいいとか、事大主義に陥りやすいのが人間です。しかしそんなものは、神殿を批判したイエスが語ったように「跡形も無くなってしまう」ものです。そんなものに見とれている必要はありません。立派で大きい神殿の前に立ったあなたが、小さく思えてもあなたは引けを感じてはなりません。あなたは決して見劣りする存在じゃありません。あなた自身が大切なんです。他人に評価されてはなりません。自分を低く評価してもなりません。

 新しい年からは、ぜひ、自信を持って、見劣りしない自分でいましょう。

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