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「福音は狂気」20211121

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「福音は狂気」20211128

聖書 マルコによる福音十四〜十五節

 

 大切にしているものは人それぞれによって異なるものです。大切なものはこれだけだ、と他人から押し付けられる謂れ(いわれ・理由)はありません。あなたが大切だと思っているものをあなたは大切にしていいんだよ、と優しく弱いみんなの思いを守る意見を述べてくださったのがイエスです。そんなイエスの生き様こそが、弱いみんなが自分と周りの人々を守るために大切にするべきエヴァンゲリオン(福音・善き知らせ)なのだよ、と最初の福音書を書いたマルコは伝えたかったのでしょう。だから、マルコは信念を込めて「さあさあこれからイエスの善い知らせの物語を始めるよ」という口上のような書き出しで、福音書をスタートさせたのです。

 十字架に架けられて殺されたイエスの信念を込めた生き様を伝えることは、イエスと同様にマルコも命を狙われることになるはずです。ですから楽しい話を披露(ひろう)する時のような高揚感をマルコは持てなかったはずです。

 

【事実を基に考える】

 事実を見ましょう。イエスはローマの刑法に則って死刑にされました。イエスはユダヤの最高法院で死刑に該当すると裁定されました。イエスは多くの民衆に見捨てられました。これが動かしようのない事実です。

 そんなイエスが語った言葉やなさった事の背後にあったイエスの考え方こそ大切なのだと証言したマルコは、気が狂(ふ)れているか大馬鹿者だと言われたに違いありません

 それだけではなくてイエスの事実に加えて、マルコが福音書を書いた時には、イエスを神の子キリストと崇(あが)めている教会組織があったのです。

 イエス・キリストは神の子であり、全人類の罪を贖う(あがなう・罪のつぐないをする)ために十字架に掛かって死んでくださり、三日目に蘇って力を証明してくださったと教え、自分の罪を悔い改めて、教会の教えを信じるものは救われる、と教えていた教会がマルコの目の前に既にあったのです。否、マルコは、そんな教会に育てられたはずです。

 しかしなぜか、キリストと呼ばれる以前のイエスの生き様に、マルコは気付かされ、引き寄せられたようです。

 

【狂気の福音内容】

 こだわっていた宗教からイエスが抜け出して、人間の常規(じょうき・ふつうの考え方)に戻った後、人前に出て最初に伝えた言葉は「神の国は近づいたであった、とマルコは書きました。

 何の疑問も驚きも感じないでぼくらは読み過ごしていますけれども、イエスがその時代の社会「神の国が近づいた」などと言ったとすれば、当時の民衆には異様に映ったはずです。

 神の国に入るということが、死にたいと言う意味ではなくて、神に守られ心配なく豊かに暮らせる神の国に入るということであれば、多くの人の願いであったでしょう。しかし、神の国に一歩でも近づきたいと思うけれども、そんな願いは簡単に成就しないと思い込んでいたはずです。簡単できることでないと思っているから、一般庶民の多くは神の国に入るために努力に努力を重ねなさい」宗教指導者から指導されていたはずです

 ユダヤ教に教えられたこのような信念を持っている人々の中で、「神の国は近づいた」と言ったイエスは、気が狂(ふ)れているか、大馬鹿者だと思われたはずです。

 ぼくが言いたいことは、イエスの福音宣教は、当時の一般人が誰も信じ得ない内容だった、ということです。それほど奇抜なイエスの福音を伝えたマルコ福音書も、教会の誰からも受け入れられなかったと考えていいでしょう。

 

【狂気を覆うために教会が加えた言葉】

 人が努力しなくても、神の国の方から近づいてきた、などという奇抜な内容を受け入れられなかったから、「悔い改めよ」と「福音を信じよ」という命令に従うことが最も大切なのだいう教え教会付け加えたのだと思います。

 改心せず、福音を信じない者が神の国に入ることなどないというのが、イエスの死後に登場した教会の一般的な考え方であったろうと思います。そう言う意味では、教会が教えている内容は、ユダヤ教をはじめ、その他の宗教と同じように、努力しなければ救われないという内容であったのです。

 

【教会も一枚岩ではなかった】

 マルコの背景に教会があったと言いましたけれども、当時の教会も一枚岩ではありませんでした。イエスこそキリストである告白し、キリストこそ人の罪を背負って、身代わりになって死んで、その後に復活してくださった神の子であるという教会がまとめた信仰信条を受け入れなければならない、と教えるユダヤ人を中心とする教会と、パウロが言うように「神なき不遜な者を罪人にしない方がおられる」ことを基礎にしてしか成り立たない異邦人(ユダヤ人以外の民)を巻き込んだ教会があったことは明白です。マルコはパウロの影響を強く受けていますが、パウロよりも積極的にキリストと告白される前の人間イエスの生き様に目を向け、そこにこそイエスの福音があるのだと力説した人です。それが結果的に弟子たちが組織した教会の福音内容に異議を申し立てることになったのですが、イエスの生き様に魅(み)せられたマルコは、それを語らずにはおれなかったのでしょう。イエスの福音内容を伝えたが故に、先ほど言いましたように、マルコはイエスと同様に、気狂い扱いされたでしょう。しかし、それでも言わずにおれなかったのは、イエスが気が狂れたようにお伝えになった福音でなければ自分も周りの人々も救われないと悟っていたからだと思います。

 

【狂気のような福音でしか救われない】

 努力しなければ救われないという教えは、努力すれば救われるということですから、受け入れられやすい内容ですが、それによっては救われない人が大勢いるのです。

 イエスが伝えた内容は、「信ぜよ」と命令する前に信じることができない人に、努力もしていない人に、すでに「神の国は近づいた」という現実があるのです。このような現実がすでにあるというのが救いなのです。

 現在のぼくたちが聞いても、この福音の内容は気狂いじみています。まともな平常心では考えられないことですけれども、これほどの内容でなければ人は救われないということです。

 

【ぼくたちは】

 自力本願で生きられる人はどうぞ努力を重ねてください。しかしどうあがいても行き詰まってしまう人は、気狂いじみて信じられないほどのイエスの言葉に耳をかたむけてみてください。

 今までした努力を今までどうりにしていたのでは、努力しても何も変わらないはずです。そこで、あほらしくて今まで考えたこともないイエスの教えちょっと受け入れてみれば、今までにはまったく見たこともない世界が見えてくるかもしれません。

 守られて安心できるところに入ることができる。そんな救いあなたのそばにあると気付くことができますように、と願っています。

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