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「イエスは自分で考え行動した」20200628

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「イエスは自分で考え行動した」20200628

聖書 マルコ 節〜十

 

 「神はキャラクター」という題で先週は説教しました。題名ですから短くしましたけれども、もう少し説明を加えた文章にすると、「『神』は、神話に登場させられるキャラクター(出演者)に過ぎない」と言い換えることができます。

 多くの方が想像することとは違いまして、「神」は神話の中でのみ、台詞(せりふ)を語ることができるキャラクター(出演者)で

 現実の世界に「神は存在しません」から、生活の中に神が出てきて語りかけることはありません。神の声を聞いた方は、この中にもおられないでしょう。これが現実です。はっきりしているでしょう。そうであるにかかわらず、聖書「神はモーセにおっしゃった」と書いてあれば、ああそうなんだ、と思ってしまう方が多いようです。なぜか聖書に対しての信頼が高んです。不思議です。

 しかし、はっきり言わせてもらいますと、聖書は神がかりで書かれた書物じゃありません。聖書は、昔の人間たちが、長い年月をかけて書いた文書の集合体でしかありません。もともとは、それぞれがバラバラに書かれたものです。場所も年代も異なっています。現在のように纏まったのは、四世紀の終わり頃です。聖書をまとめた当時の学者たちの思考や社会思想強く影響しているんです。ですから歴史的な文書でさえも、そのままみとめられない内容が書かれていることも多々あります。このあたり注意事項を念頭に置いて読んでいただきたいものです。

 ですから神がおっしゃったという表現を読んでも、そのまま受け取れないんです。聖書は、人間に働きかけてくる神が存在していることを前提にかれています。しかし、現実には神の声は聞こえません。そうだとすれば、前提を疑って、冷静に読むべきだと判るはずです。前提が替われば、聖書の主張の多くは崩れるはずです。

 

【神が存在するという言い方は間違っている】

 はっきり言わせていただくと、「神は存在する」という前提が間違っています。逆上しないで聞いてくださいね。ここにコップが「存在する」というような言い方で、「神が存在する」と言うことはできないはずだ、と言っているんです

 神を信じている人が、この宇宙を作り出した「神が存在していると言えば、論理矛盾に陥っています。たとえ「神」をこの世の至高の地位に置いているにしても、被造物のよう存在するもの」の延長線上に「神を」置いていることになるからです。まるで「被造物が存在する」というような仕方で「神は存在する」などとは言えないはずです。全てを創造なさった神を信じる信仰者言うべきじゃないと思います。信仰者とし不遜(ふそん・思い上がりおごりたかぶっているさま)な態度であると思います。「神は存在する」などと平気で口走る人、「神の存在保証するあなたは、いったい何者か、とぼくは問います。神について云々する人は、まるで自分が神を超えている存在であるかのように振る舞っていることに気づいていないだけです。神を信じると言いながら、この上な不遜な信者であることを自己申告しているとしか思えません。

 

【神話の中でのみ神は語り得る】

 現実を見ましょう。そして現実から予想してみましょう。現実に神から直接語り掛けられた人はいません。そうであるならば、人に直接語りかける神はいない、と予想できるはずです

 現実に語りかける神はいません。神話のキャラクターであるだけ神話の中だけで語ることができるんです。そして、これは聖書でも同じです。

 逆転させた言い方をすれば「神が語った」とか「神の声が聞こえた」という言い回しが出てくる物語は、全部神話である、ということです。

 神を信じている人がぼくのような考え方を聞くと、猛反発なさるでしょう。しかし、神の声は聞こえないという事実を覆(くつがえ)すことはできません。神の声を聞いた人はいないでしょう。これが現実なんです。

 

【神の言葉は作者の言葉】

 「神」の言葉と言われているものの実態は、創作物語の中に登場させられる「という役の出演者に与えられた台詞(せりふ)なんです。

 神話の神に当てがわれた台詞は、台本を書いた人の言葉です。作者は誰か、ということに気をつけて読まなければならないんです。

 台詞を書いた人が、自分の言いたいことを神話の神というキャラクターに言わせるために書いたとうことです。紹介されている神の言葉は神話の作家ディレクター(制作責任者)の言葉でしかありません。読者は、人の言葉を、神の言葉だと思い込まされているだけです。

 それらが神の言葉である、という保証は何もありません。逆に、神の声ではない、という証拠があるのみです。神の声は聞こえないんですから、人に語りかける神はいないというのが真実です

 

【自分の生活を創造した人々】

 さて、社会の流れに迎合(げいごう・他人のきげんをとること)せずに、自分の生き方を自分で創造しながら歩んだ人として、先々週はアブラハムを、先週はモーセを紹介しました。そして、今日はイエスを見ていただきま

 イエスは二〇〇〇年ほど前の人です。マタイ福音書の著者もルカ福音書の著者も、イエスの誕生にまつわる不思議な物語を紹介しています。それは、神のお膳立ての上に誕生したのがイエスであることを強調したかったからでしょう。イエスが神の子であることを示す神話がイエスの誕生物語です。

 しかし、マルコ福音書は、イエスの誕生神話を書いておりません。イエスの物語を、修行者バプテスト・ヨハネの下にやってきたことからめていす。そしてバプテスト・ヨハネから(バプテスマ)洗礼を授けられたことを伝えています。なぜなら、重要な出来事だとマルコは考えているからです。

 しかし、キリスト教の教義に照らせば罪を告白してバプテスマを受ける必要などイエスにはありません。できることなら、イエスヨハネから洗礼を受けたという事実に、マタイは触れたくなかったでしょう。ですから、マタイは、「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに・・・」とヨハネに言わせることによって、イエスの方がヨハネよりも上だと思わせようとしているほどです。

 

【天からの声は神話

 この事実の後に、イエスが水から上がられるとすぐ、天が裂(さ)けて「霊」が鳩のようにご自分に降ってくるのをご覧になった。すると「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適(かな)う者」という声が天から聞こえた」とかれています。けれども、こんなことは現実に起こりませんから、これらは完全に神話です。

 イエスは公生涯の初めから神の子として、天に認められていたんだと言いたいために教会が書かせた神話です。元来のマルコの思考には合わない表現だと思いますし、事実に反しています。

 もしもこのような事件がイエスが活動を始める前にあったならば、周りにいる人々が大いに喜び騒いだはずです。しかし何の騒ぎも起きなかったのは、このような出来事がなかったからです。

 天からの声の台詞を書いて、イエスに天からの保証を与えたかったのは、誰か、ということを考えれば、天の声の台詞は、後の教会言葉であると判るはずです。マルコにとっては、イエスはヨハネからバプテスマを授けられた、という事実だけが重要だったはずです。

 

【荒野での誘惑】

 バプテスマを授けられたイエス、荒野に出て行って、四十日間、サタンから誘惑を受けたことになっています。イエスは、自分にバプテスマを授けたヨハネの下で修行生活に入ったことを示している、とぼくは考えています。もしも天からの声がイエス神の子である認めていたならば、いまさらイエスは荒野に出ていく必要もなかったはずです。イエス荒野の生活にったのは天からの声なんか聞こえなかったからです

 モーセに率いられたイスラエルの民が四十年間も荒野をさまよったという記事でも判る通り、四十というのは長期であることを示しているだけです。イエスの荒野での修行が本当に四十日間であったと言う保証はありません。ただ、長期に渡る修行をしたことは事実でしょう。しかし、その間にサタンの誘惑を受けたとか、野獣と一緒にいたとか、天使たちが遣えていた、というのは全部神話です。誘惑するサタンも守る天使も実在しません。

 マタイもルカも、イエスに対するサタンの誘惑神話を膨らませて、イエスをサタンに打ち勝つ指導者として描き出すように脚色していますけれども、そんなことは誰にも確認不可能なことですこれらの物語は全部、教会が書かせた神話です。

 しかも、面白いことに、もしも野獣たちが一緒にいたにもかかわらず襲いもしなかった、とか天使たちが遣えていたのであれば、イエスにはなんの心配もありません。そんな修行も誘惑も意味ありません。

 ですから、イエスはバプテスマを授けてくれたヨハネの下で、荒野での修行に励んだ、という事実だけがマルコにとって重要だったはずです。

 イエスはサタンの誘惑を受けたけれどもこれを見事に払い除けた、という神話は、イエスの偉大さを示したかった後の教会が書かせた神話ですしかも、これ以降に、神がイエスに語りかけたという記事は皆無です。

 アブラハムにもモーセにも、神話の神による召命(しょうめい)の言葉が語りかけられていましたけれども、マルコ福音書のイエスは、神からの召命を受けておりません。それにもかかわらず、イエスは、自分が気づいたことを他の多くの人に知らせる活動を始めました。この驚くべき事実に気づく人が少ない不思議です。とにかく、イエスは独自の判断で行動しました。イエスは、自分で考え、自分で気づき、自分で行動した人の典型です。

 イエスの活動の中に「神」は登場しません。イエス十字架の上で最期の時を迎え時にすら、神は語ることも手を出すこともなかったんです。「神は存在しない」からです。

 その後復活物語にさえ、マルコは、神話の神を登場させませんでした。イエスは先にガリラヤに行った」と白い衣を着た若者に言わせましたが、復活したイエスの姿を登場させませんでした。

 マルコは、最初から終わりまで、イエスという人間の出来事を書いたのだと思います。そういう現実に力を感じます。神話にはない力を感じます。

 神話からも神からも自立した人間イエスを、マルコは伝えました。なぜならここにこそ人間の生き方があるとマルコは思ったからです。

 

【ぼくたちは】

 神話の神の言葉を聞く必要はありません。なぜならそれは人の言葉だからです。イエスのように、ぼくたちも自分で考え行動していいんです。神の言葉など聞こえないぼくたちを、マルコはイエスの生き様を知らせることで応援してくれているんです。

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