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「神に祈らない」20200906
「神に祈らない」20200906
もう九月です。時が経つのは早いですね。小さかった頃は、時がなかなか過ぎないように感じました。多くのことを期待していたからでしょう。
たとえば、遠足の前日にでもなりますと、早く明日にならないかなあ、と明日になるのを待っているものですからね。待つ身にとって、時間は遅く感じます。しかし、歳を取りますと、いろんなことを経験しているために、判断できるもんですから、過度な期待はしませんね。
たとえば、明日町内会で行く保養センターは、何回も行ってるからね。またジンギスカンやろう。てなもんです。将来を待ちぼうけているわけじゃないから、時間が経つのが早いんでしょう。
客観的な時間は同じなんですけれども、早く感じたり遅く感じたりするだけのことです。とは言え、時間は相対的に変化するもんですから、実際に伸びたり縮んだりしていると考えてもいいのかもしれません。
どんなことについても、感じ方の違いは十人十色です。生活をする上で、意見が合わない事が一番の障壁になっている、と言っても過言じゃありません。みんなそれぞれに、思い込みがあるっていうことが面倒をひき起こします。
【先入観】
思い込み、というのは言葉を替えて言えば「先入観です」。難しく考える必要はありません。書いて字の通り「先に入り込んだ考え方」だというだけです。事実であるかどうかということよりも、先に入り込んだ考え方に、より強く影響される、だけのことです。
倫理や習慣や神話も、先入観がものを言います。何が真実か、ということに関係なく、先入観の方が常識になってしまいますから、違う立場から見ればおかしなことでも、先入観が、その人にとって当たり前になってしまうんでしょう。
国が異なれば考え方も異なり、お互いに相容れなければ戦争にまで発展します。
悲惨な出来事を起こさないように、ちょっと立ち止まって、先入観や思い込みから、一度離れて、考え直してみよう、とぼくは毎週の説教で言っているようなもんです。
科学の進歩というものは、現実を知ることによって、先入観を壊すことだったと言って過言じゃありません。
囚(とら)われていたことから逃れて、拘(こだわ)っていたことを捨てて、自由になってみれば、それまで気づかなかったことが見えるようになるもんです。パウロのように、目から鱗(うろこ)が落ちた、という経験をすることは、人生の中で必要なことだと思います。
さて、今日も先入観を取り払って、考え直してみるために役立つ説教をお届けしたいと思います。
【祈りについて】
今日は久しぶりに「祈り」について考えます。苦しい時の神頼み、というくらいです。どこに向かってしているのか判りませんが、誰でも祈りくらいするもんです。どんな宗教でもそうであるように、キリスト教会も、祈りをとても大事にしています。
宗教の指導者というのは、概して祈りがお上手です。宗教者に必要な資質と言ってもいいかもしれません。しかし、ぼくは祈りが下手です。それは、はっきり言って祈りとは何なのか、理解できていないで、迷いがあるからです。
皆さんの中にも祈れない、とおっしゃる方は多いはずです。いやいや、恥ずかしがる必要はありません。実は、イエスの弟子たちも、どのように祈ればいいのか判らなかったんです。
そこで、イエスが弟子たちに教えた祈りを見ることにしましょう。
【イエスが教えた祈り】
どの教会でも礼拝式の中で「主の祈り」を唱えます。イエスがお教えになった祈りなんですから、どこの教会に行っても同じだ、と思っている人が多いんですが、驚くことに、同じじゃありません。言語によって違うことはもちろんですし、教派や時代が異なれば、祈りも異なります。それどころではありませんよ。聖書の中においてでも、「主の祈り」を紹介している二つの福音書で、使われている言葉が異なっております。びっくりでしょう。
ぼくたちは、自分が覚えている祈りこそが、イエスがお教えになった「主の祈り」だなんて思っていますが、自己中心的な考えです。
多くの教会で使われてきた「主の祈り」も、実は、聖書に紹介されている言葉と、同じじゃありません。
「聖書に忠実に」というのが、クリスチャンのモットー(行動の指針)であるはずなんですが、現実は、聖書通りじゃない、というのも、びっくりでしょう。ちなみに、ぼくたちは、独自で編み出した「主イエスの祈り」を唱和しています。
【マタイ福音書によれば】
マタイ福音書とルカ福音書では、そもそも、「主の祈り」が紹介される場面設定も、まったく異なっています。主の祈りが二つあるようなもんです。
マタイ福音書によれば、イエスが、祈りを教えた時の前振りからして、興味深いものがあります。
祈りの言葉を教える前に、「くどくど祈るな」という件(くだり)があるんです。
「祈る時には、異邦人(ユダヤ人以外の外国人や異教徒)のようにくどくど述べるな。異邦人は、言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる。彼らの真似をしちゃいけない。君たちの父は、願う前から君たちに必要なものをご存知だ。」(マタイ六章七節〜八節)とある通りです。そうであるにもかかわらす、教会では熱心に祈ることが良いことのように奨励されています。
【ルカの場合】
ルカ福音書によりますと、ファリサイ人や律法学者たちが、美辞麗句を並べた、格好のいい、長い祈りをしていた時代にもかかわらず、弟子たちは、イエスが祈っておられるところを見聞きしたことがないんじゃないかとさえ感じます。自分の先生から祈りを教えてもらったヨハネの弟子たちを羨(うらや)ましがっていた節さえあります。
ある時、イエスが祈っておられたのを見た弟子たちは、この時とばかりに「ヨハネが弟子たちに教えたように、ぼくたちにも祈りを教えてください。」と願い出ました。弟子たちに、せがまれてイエスがお教えになったのが、いわゆる「主の祈り」であった、ということです。
弟子たちは、厳粛(げんしゅく)で長い祈りを教えていただけるものだと期待していたことでしょう。ところが、短い祈りでしたし、内容も、とてもじゃないが厳粛だとは言えないものだったので、拍子抜けしたと思います。
【父よ、という呼びかけ】
しかも、「父よ」という呼びかけで始まっていたということですから、弟子たちの驚きは計り知れないものであったろうと思います。
ちなみに、マタイは「父よ」という呼びかけをそのまま受け入れられなかったんでしょう。「天」という表現を好んで使うマタイは「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけに変えてしまったように思います。
教会の慣用句ですから「天の父なる神様・・・」という呼びかけで、ぼくも祈っておりました。ところが、ある時、ルカ福音書を読んでいる時に、イエスの言葉に「天におられる・・・」という表現がないことに、改めて気づきました。「復活のイエスは天に昇って行かれた」と伝えたルカが、「天におられる」と呼びかけないんですから、元々の呼びかけは「父よ」という言葉だけだったに違いない、と気付いたんです。
【教会の「主の祈り」】
バプテスト教会では日本基督教団時代の「主の祈り」を長らく使ってきました。言葉的にはマタイ六章の方に近いものです。少し長いですし、格好いいからでしょう。
しかし、聖書の言葉だけじゃなくて、教会の「主の祈り」には、最後に「国とちからと栄えとは限りなく、なんじのものなればなり。アーメン」という言葉が付け加えられております。祈りの最後を知らせるような、慣れ親しんだ言葉です。実は、ディダケー(十二使徒の教え)という二世紀頃の書物にこの記述があるのだそうです。しかし、マタイとルカ、両福音書にはない言葉です。
だから、新約正典の福音書の記述にないものでも、教会は実際に使っていることが判ります。
何を言いたいかと申しますと、聖書は神の言葉であるから勝手に変えてはいけない、と言いながら、結構適当に使っている、ということです。
【マルコが伝えたゲッセマネの祈り】
立派な祈りは、聖書のあちこちにあります。けれどもイエスの祈りは、全く異なっています。
マルコは「主の祈り」を知らなかったんでしょう。マルコにとって、ゲッセマネの園で逮捕される直前に、お祈りになった言葉が、イエスの祈りそのものだったように思います。
「アッバ(お父ちゃん)」(マルコ十四章三十六節)で始められていることから判る通り、「天におられる神」への祈りではありません。
イエスが教えた祈りは、「父よ」という祈りであった、と伝えているマタイやルカ以上に、砕けた表現で、イエスは「アッバ」と呼びかけたんだとマルコは言っているんです。
【ぼくたちは】
「アッバ」という呼びかけを「父よ」という呼びかけに、そして、「天の父」へ、さらに「天の父なる神」へと、時代が進むに連れて、教会は、呼びかけの言葉を、たぶん、自覚のないままに、イエスの意図に反して、すり替えてきたんでしょう。
「アッバ」という呼びかけは厳粛な宗教の祈りには相応しくないでしょう。しかし、そこにこそイエスの福音の真髄が表現されている、と思います。ですからぼくたちは、もっと、イエスご自身の言葉を大切にするべきだと思います。