説教の題名を押して下さい
「願い通りにならない祈り」20220904
「願い通りにならない祈り」20220904
聖書 マルコ福音書十四章三十二節〜四十二節
新興宗教が取り上げられることが多い中、宗教に関する映画をいくつか見たところ、原理的な信仰を称賛するものが多いことに驚きました。先日見た映画では、「今まであなた(神様)を一番にしていませんでしたが、これからはあなたに服従しますから、私を悪の力(サタン)から救い出してください」と祈った女性のその後の生活が好転していくというものでした。
神様に従いますから、今後はあなたが私を助けてください、という権力に頼る生き方は変化していません。このような構図はほとんどの社会に健在です。イエスは、多くの人を縛っている既成概念から人々を解放する福音を説いたのですから、宗教を取り上げている映画はイエスの福音を理解していないことは明白です。
現状を改善するために、現状の支配者よりも強い権力者に服従して、現状の支配者から解放されようとすることは、さまざまな宗教の布教活動にも見られます。
多くの人々は、力が強い方に靡(なび)きます。強い力に頼れば間違いないと考えているような心の弱みに入り込むのが宗教の神です。それまで認めてこなかった神を最高最大の権力者だと認めさせるという仕方で、宗教は神に従う決意を求めます。しかし、神であれ何であれ、他者に全面的に頼れば何とかなるという概念が根本的に間違っています。頼るにせよ拒否するにせよ、それを決定するのは自分自身ですから、最も大切なのは自分の考え方です。とは言え、若者が自分を見つけるのは難しいです。なぜなら広範囲な教育が必要だからです。しかし世界中で行われている教育は偏狭(へんきょう・片寄った狭い)しています。権力(神)に服従すれば、権力(神)が助けてくださるという概念(がいねん・考え方)を刷り込んだのは権力者に違いありません。最も古い詐欺(さぎ)は宗教である、と申しますように、神を登場させるのは権力者です。イエスも偏狭なユダヤ社会の教育に育てられたために、ユダヤ教の教えに騙されて、荒れ野で徹底的に修行したようです。しかし、イエスは修行の限界を悟り、伝統的な教えに疑問を持ったことによって、自分の気持ちに気づいたのだと思います。
【神への祈りは叶(かな)わない】
イエスの荒れ野での禁欲生活は祈りに専念する生活であったと思います。イエスのそばにいたのではないので知りませんが、どうせそんなもんです。しかし、イエスの祈りは叶えられませんでした。みなさんも、祈りが叶(かな)えられないという経験をお持ちでしょう。それは祈りが足りないからだとか、祈りの姿勢が悪いからだ、などと自分に責任があると教えられて来たことでしょう。神に祈っても叶えられないという事実を誤魔化(ごまか)すために、自分のための願いを祈っても叶うものでは無い、と教える指導者もおられます。では、どんな祈りなら叶えられると言うんでしょうか。他人のための願い事なら叶えられるのでしょうか。先ほど紹介した映画のように、神を第一にすることによって、神がぼくたちの願いを叶えてくださる、と宗教は教えます。しかし、祈りが叶えられないという体験をしている人が圧倒的に多いはずです。
【イエスの祈り】
さて、それではイエスの祈りはどんなものだったのでしょうか。今日は、ゲッセマネの園でのイエスの祈りを取り上げます。
最後の晩餐の後にイエスと弟子たちは賛美しながらエルサレムの城壁を出て、エルサレムに隣接しているオリーブ山のゲッセマネ(油しぼり)の園に行きました。ゲッセマネに着いたイエスは全員を座らせた上で、ペトロとヨハネとヤコブだけを呼び出して、さらに先まで進みました。その三人に、他の所に行かないで、ここで待っていてほしいと伝えたイエスはさらに奥まで進んだ所で祈ったようです。
しばらく一人で祈ったイエスが三人の所に戻ってみると、彼らは寝ていたと書かれています。とてもショッキングな情景です。
【一人の祈りが書かれているのは奇妙】
ここに、一人だけで祈ったイエスの祈りの言葉が書き残されているのは奇妙です。
聴こえるほど大きな声で祈ったならば、弟子たちから離れる必要もなかったはずです。離れて祈ったイエスの言葉は、実はイエス自身の言葉じゃなかったんじゃないでしょうか。
先週は、新興宗教と政治家の癒着がマスコミを賑(にぎ)わせていると言いましたけれども、イエスが殺されてから数十年後に、ある程度の勢力に成長していたキリスト教団と言えども、当時は新興宗教だったということを忘れてはなりません。キリスト教団の信仰者の言葉がイエスの祈りの言葉として書かれている可能性が高いと思います。
【祈りの言葉】
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適(かな)ことが、行われますように」とイエスは祈ったと書かれています。
「自分の願いに反しても、あなた(神)が願うことを行ってください」というのは神への完全な服従を表明しています。イエスでさえ神への服従を宣言なさったと伝えることによって、信仰者のあるべき祈りの姿勢を教えているのだと思います。ここでは、イエスの願いさえ適(かな)えられないというのですから、願った通りにならないのは、神の心に反しているからだという明確な主張をキリスト教団は教えているようです。いずれにせよ、必ず神の心のままにしかならないのであれば、イエスのように祈る必要もありませんでした。みなさんはどうおもいますか。
何事も祈れば解決すると教えながらも、御心だけが成ると教えている教会の指導に矛盾を感じるのはぼくだけではないはずです。
イエスの祈りに関係なく、イエスは捕らえられて十字架に付けられました。祈りに関係なく現実は進んでいきました。苦難を避けたいというイエスの願いに耳を傾け、自分の意志を変更してくれる神などいなかったのです。
「御心だけが行われますように」という祈りの言葉は、祈りが叶わないことを弁護する教会の言葉だと思います。なぜなら、十字架上のイエスの最後の言葉「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びとも合致しないからです。
【ぼくたちは】
神への祈りが叶えられないのであれば、祈りや叫びは誰に届けば良いのでしょう。
周りにいて、イエスの言葉を聴いてくれるはずの弟子たちは眠り込んでいました。何度注意されても眠り続けていた弟子たちには、イエスの言葉さえ伝わっていなかったのです。イエスを殺そうとする世間からイエスを護るはずの弟子たちは十字架の元にもいませんでした。教会を運営している弟子たちはこれほど頼りにならないのだということをマルコは福音書にズバリ書いたのです。教会も教会が教えている神もあてになりません。
祈りや叫びは周りにいる人に届けば良いのです。人々の叫びを聴いたイエスが行動なさったように、ぼくたちは祈りや叫びを聴けるように目覚めていたいと思います。