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「口先で敬うのは偽善者」20231008
「口先で敬うのは偽善者」20231008
最近になって、流行病(はやりやまい)がまた力を増して来たようです。しかし、基本的な対処法は、昔からあまり変わりません。病原菌等を体内に入れないように防御することが大切です。具体的には、外から帰って来た時には、手を洗ってうがいをするのが一番確かなのです。このような公衆衛生の観点からすれば、今日の聖書の箇所は、理論的に正確な判断を示していると言えますから、手を洗わないで飲食した弟子たちは責められてもしょうがないでしょう。
しかし、ファリサイ派や律法学者たちがイエスに批判的な問いかけをした理由は、公衆衛生に関する論点ではありません。
イエスはその理由を察知して、律法解釈の専門家たちを、厳しく責めました。
弟子たちの手が汚(よご)れていたかどうかという衛生的なことは問題ではありません。宗教儀式的に清めていない手、すなわち穢(けが)れた手で弟子たちが食事したことから、昔から守られて来た宗教儀式に従っていない状態が責められたのです。
ファリサイ派の数人と律法学者たちが、わざわざエルサレムからイエスの元まで出かけて来た、と書かれていますように、律法の専門家たちは、律法の教えに言葉通りに従っていないイエスの様子を聞いて、それをやめさせるために、行状を探って、律法違反の罪でイエスを訴えることがもくてきだったのでしょう。宗教的な教えに従っているかどうかを問題にしていたのです。
ユダヤ教の律法に厳格なファリサイ派や律法学者たちの態度というのは、生活の慣習を大切にしているという程度ではなく、ぼくたちの感覚では理解できないほど徹底してしきたりに従うことでした。
彼らの生活からすれば、ぼくたちの一般的な生活は全体が穢(けが)れた状態なのでしょう。
ぼくたち日本人でも、神社にお詣りする時には、手水(ちょうず)で手を清め、口をすすいだりします。普段の生活的には綺麗な手であっても、その場で清めるというのが慣(なら)わしです。普段の生活の穢れを洗い落としてから神殿に向かうという作法は、綺麗な躾(しつけ)です。日本人のこの作法はユダヤの神殿での作法と関連があるだろうとぼくは考えています。いずれにせよ、このような躾は良いことです。しかも、その習慣を一般生活の場でも実践していることは、伝染病の蔓延を阻止する意味でも、褒められはすれ、貶(けな)されるようなことではありません。
ところが、今日の物語に登場するイエスは、ファリサイ派と律法学者たちに対して、手厳しく立ち向かっているのです。過剰反応しているんじゃないかと感じませんでしたか。
イエスは昔の預言者イザヤの言葉を用いてファリサイ派や律法学者たち、いわゆる律法解釈の専門家たちを批判したのです。しかも、彼らを偽善者(ぎぜんしゃ)と呼んだのですから驚きでしょう。
偽善者という言葉は、聖書の中ではよく使用される言葉ですが、かなり酷い言葉ですから一般的には使いません。
偽善者とは善良や誠実を装いながら、内実はそれと異なり、自己利益に誘導するために、隠された意図や動機を持っている人のことです。マスメディアで専門家などと紹介される人々を見てこの言葉を思い出すのはぼくだけの思いではないでしょう。
表面と内実が違う人ということですから、単なる批判を超えた厳しい避難をイエスは専門家たちに投げかけたということです。
ユダヤ民族の律法に関する専門家ですから、神の言葉に従っている振りをしながら、内実は先祖の言い伝えに忠実に従っているだけだという批判です。内と外が違う、つまり本当に大切にしているものが判らない者に対する批判です。
状況が変化すれば、自論を変えることができるような存在は、どちらに転がるか判らない人たちですから安心して付き合えません。
イエスが相手した専門家というのは、このような人たちであって、ちょうどイザヤの言葉のようだと言ったのです。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教え、むなしくわたしをあがめている。」
イザヤ署では「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚えこんだからだ」(イザヤ書二十九章十三節)となっておりますから、かなり言葉遣いが異なっている部分もありますけれども、今のように印刷物として聖書が出回っている時代ではありませんから、そこら辺は多めに見てもらいましょう。
イザヤの批判は民に対してなされているのですが、イエスの批判は、律法解釈の専門家たちを相手にしているからでしょうか、イエスはイザヤ以上に激しい言葉、偽善者を使って批判したのです。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ・・・」と言っているのですから、この解釈はイエス独自の言葉であって、イザヤの言葉ではありません。イエスは意外にも自由に旧約聖書を引用していたのです。
とにかく、イエスが大切にしていたのは人の普通の生活、人が日常の生活を続けていけることなのだと思います。
食事前に手を洗ったほうが良いに決まっていますけれども、日本のように蛇口を撚れば綺麗な飲料水が出てくる国はほとんどありません。
農作業をしている人や、放牧している家畜を世話をしている人が食事前に手を洗うことができるでしょうか。しかも専門家たちが要求しているのは、宗教儀式として手を清めることだとすれば、普段の生活との整合性はあるのでしょうか。
専門家たちが求めているのは、宗教的な儀式として手を清めることだったのです。
【ぼくたちは】
イエスが大切にしていたことは、人々が普段の生活を続けていくことです。それを偽善者のような専門家たちに邪魔されたくないというのがイエスの本心であったとぼくは考えております。
都市封鎖や人間同士の接触を回避することが専門家たちから求められましたけれども、その指導に本当にどれほどの効果があったのかも不確かです。専門家は人の繋がりを基軸にした社会を壊しただけかもしれないのです。
口先だけで神を崇め、神に仕えている振りをする宗教の専門家は、庶民の生活を本当に心配しているとは思えません。そのような専門家をイエスは偽善者とまで呼んで批判しました。
現代の専門家も、当時の専門家と同じようなものです。そうだとすれば、イエスは現代の専門家にも怒って偽善者と呼ぶに違いありません。
ぼくたちは宗教や昔からの慣わしによって圧迫されない普段の生活を大切にしましょう。