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「満たして下さい」20190728
「満たしてください」2019年7月28日
聖書 ヨハネ福音書 四章 一節~ 二十六節
世の中の人はみんな心が満たされていないので、心を満たしてくれる何かを探しているようです。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)で友達を見つけ、仲間の輪を広げようとしたり、面白そうなものを探す活動が、加速しています。コンピュータやスマートフォンの技術革新と普及が爆発的に伸びていることから、多くの人が、今最も手軽な方法として、インターネットを介して、心の隙間を満たしてくれるものを探しているように思えます。人と繋がるための間口は広くなったことは認めます。しかし、人と人格的に出会える確率は返って減っているように思えるので、本当は決して手軽な方法じゃないと思います。とにかく、技術革新が進んだ時代になっても心が満たされる人は、少ないのが現実です。
食べ物でも着る物でも、物質的、量的に、今の日本は、かなり満たされています。しかし満足していない寂しい人が多いようです。衣食住などの基本的なことが最低限揃っていても、心が満たされていない人はどんな時代にもたくさんいるようです。物が潤沢にあるにも関わらず、心が満たされていない、というアンバランスが、現代の日本人をイラつかせているようです。
このことから、物質と心は、本来、直接的な関係を持っていないことが判ります。イエスの時代は、物がなかったことも事実ですが、何よりも心が満たされていなかったということが人間として最も大きい悩みだったでしょう。そこで、今日は、物から離れて、感覚的なことになりますけれども、「心」について考えてみたいと思います。
【サマリア人とユダヤ人】
さて、今日の物語の場面は、ヤコブの井戸とも呼ばれているシカルの井戸です。旅の途中、疲れた様子のイエスだけを井戸の側に残して、弟子たちだけが、食料を調達しに出かけていました。そこにサマリアの女が水汲みに現れました。サマリア地方に来ているんですから、女がサマリア人であったことは不思議じゃありません。ただ、正午ごろに水を汲みに来たところが気にかかります。
この女に、イエスは「水を飲ませてほしい」と語りかけました。
「ユダヤ人のあんたが、サマリアの女に、水を飲ませてほしいと頼むのかい」と女が呆(あきれ)れていることからわかりますように、ありえないことだったんでしょう。様々な理由が思いつきますけれども、「よくもそんなことを言えたもんだね」という敵対的な響きを感じます。
ユダヤの男がサマリアの女に願い事をするなんて考えられないことだったようです。この女は、昼まで寝ていたのか、人目を避けていたのか判りません。とにかく、事情があって、真昼に水を汲みに来ていた。そんな女に話しかけるなんてことは、常識はずれだったようです。
水を、女から素っ気なく断られたイエスは、負け惜しみのように「水を飲ませておくれ、と言ったのが誰であるか知っていたなら、お前の方から、生ける水を飲ませてください、と頼んだことだろうよ」と、言いました。女は負けじと「水を汲む道具もないくせに、どのようにしてわたしに水を飲ませるというんだい」「わたしたちにこの井戸を与えた先祖ヤコブよりも、あんたは偉いつもりかい」と言い返しました。すると、イエスは、「この水を飲むものは必ずまた渇く、しかし、ぼくが与える水を飲むものは決して渇かない。それどころか、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧きあがる」と、言って、話を全く違う主題に変えてしまいます。
【イエスが与える比喩としての水】
飲み水をきっかけにしたイエスとサマリアの女との対話は、この言葉によって、突然、「生ける命の水」の主題に変わっています。井戸水とイエスが与える水は、直接の関係がありません。喉の渇きを潤す水は、イエスが与える心の渇きを満たすものの比喩として、物語の導入に用いられただけです。それにしても、こんなふうに、話している題材が、全く違うものにどんどん変えられたら会話を続けて行けません。ということは、これは実際の会話ではなくて、サマリアの女とイエスの対話を通して、著者ヨハネが言いたいことを、表現しているんだと思います。
【礼拝の場所について】
続く会話の中で、女は、突然、礼拝の場所についてイエスに尋ねます。このことで、主題はまた変わっているんです。
ここで、ユダヤとサマリアについて、背景をちょっと説明しておきましょう。ユダヤとサマリアは仲が悪かった、というよりも、信仰が異なっていた、と言った方がいいでしょう。ユダヤ人はエルサレムに、サマリア人はゲリジム山に礼拝所を作っていました。時代的にも地域的にも他民族との混血があったサマリア人をユダヤ人は軽蔑していたんです。旧約の時代からの根深い対立がありました。そうであったにも関わらず、この物語のイエスは、「この山(ゲリジム山)でもエルサレムでもなく父を礼拝する時がくる」と言います。
【サマリアの女もイエスを受け入れた】
さらに、サマリアの女は、この人(イエス)はメシア(キリスト)だと思う、と町の人に説明します。昼間にこっそり水汲みに来ていた女が、街に行って人々の前で証言した、というのも、話の筋立てに無理がありますが、身持ちの悪い異邦人の女がイエスをキリストだと証言した、と強調しているんでしょう。
【ヨハネが抱えていた問題】
話の筋が、こんな調子で、どんどん代わって行くのでこの物語は理解しづらいんです。
こんな展開になっている理由は、ヨハネが、自分の教会に向けて、この物語を書いたからだと思います。自分の教会の人々を安心させるために、教会の牧師のように、一度にたくさんのことを言いたかったんでしょう。
ヨハネが福音書を書いた背景に、ユダヤとサマリアの間にあったような差別が教会間にもあっただろうとぼくは推測しています。
福音書の著者ヨハネの教会は、聖地エルサレムから遠く離れた異邦人の地にありました。
ユダヤのエルサレムこそが礼拝する聖地である、という主張がエルサレム教会にあったとすれば、ヨハネの教会は、ユダヤに対するサマリアのような、存在だったはずです。礼拝する場所に限定があると、ヨハネの教会にとって都合が悪いということです。
ぼくたちの日本では、あちこちで美味しい飲み水を手に入れることができます。しかし、この物語の背景の地は、水は貴重品という言葉では表しきれないほど大切なものだったはずです。何しろ生きて行くために必ず必要なものであるにも関わらず、どこでも手に入るものじゃなかったんです。
井戸に水を汲みにく、という表現でわかるように、水のあるところまで行かねばならないということです。すなわち、場所が限定されています。しかし、ヨハネの教会にとって、限定されていては困るんです。だから、ヨハネのイエスは、礼拝の場所は限定されないと伝えます。イエスが与える水は、場所に限定されないというんです。今は、場所に囚われないで礼拝することができる時代である、とヨハネは言いたかったんでしょう。
【ヨハネが抱えていた問題】
ヨハネの教会は、差別を受けた教会だったので、ヨハネは、イエスの言葉によって、その状況を打破する必要があったんです。
ヨハネのイエスは、場所にも、人種にも性別や仕事の種類にも影響を受けずに礼拝することができる時は来た、と伝えました。
権威づけするために、ヨハネはイエスに、私こそ神の子だと主張するので嫌ですが、とにかく、神の子イエスの出現によって、場所に限定されずに(神を)礼拝できる時が実現した、とヨハネは強調しています。
神を礼拝することとキリストを礼拝することが同じであること、父なる神と神の子なるイエスキリストが完全に同格になっているのがヨハネ福音書の特徴です。ヨハネ福音書が書かれたのは、かなり後代であることが判ります。
そんなヨハネの教会が差別に直面していたんですから、ヨハネは、教会をしっかり位置付け、自信を持たせるために福音書を書いたんでしょう。
時代にも場所にも民族にも性別にも職種にも囚われないで、礼拝することができる、ということをヨハネは自分の教会に示したかったんでしょう。
ただ、その理由として、場所に囚われる心配のない霊を、都合よく登場させたことは、いただけません。
【ぼくたちは】
確かにぼくたちも、何にも囚われる必要がない、というのはヨハネの主張の通りです。しかし、その理由を説明するために、神が霊だとか、イエスが神の子だとか、証明できないことを持ち出す必要はありませんでした。
ユダヤ教の律法を徹底的に守ることなどできないと悟ったイエスは、律法厳守を要求する神などいないという福音に行き着き、当時の宗教教育から抜け出すことができました。ぼくたちに様々な条件をつけ、様々な要求をするのは、神の名を利用する人であって、要求する神などいない、という情報をイエスは与えてくださいました。この教えが福音です。この福音だけで、ぼくたちは全ての囚われから解放されるんですから、この福音で心が満たされるならば、それで十分です。これだけで差別を乗り越えることができます。
重要なことは、生き方を、イエスがお伝えになった福音に根ざして建て上げることです。要求に応えられないことに悩む必要はなく、このままで受け入れられていることによって、満たされた心で、時を紡いでいけばいいんです。
ヨハネが知らせたように、イエスからいただいた福音こそが、心を潤(うるお)し、心を満たしてくれる命の水です。他のことはいりません。余計な言葉が入ってこないで済むように、イエスの福音で満たしてください。