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「お宝発見」20220111
「お宝発見」20220109
聖書 マルコ福音書 一章 一節〜十五節
お待たせしました。今日が年初めの礼拝です。年初めの日曜日の礼拝をお休みにしておりましたので、みなさんも寂しかったでしょう。ぼくも寂しかったと告白しておきます。
さて、年も新たになったので、ぼくたちも気持ちを一新して、双六(すごろく)というゲームのように「振り出し」という出発点に戻りましょう。
双六ではゲームの途中で一人だけが振り出しに戻されることもあります。サイコロを振った時の運によって、出た数だけ駒を動かす際に起きる偶然だとしても、自分の駒だけがスタート地点に戻されると、ちょっと凹みます。実生活でもぼくたちは振り出しに戻されることがあります。けれども、落胆する必要はありません。なぜなら、振り出しに戻されるまでの経験は、ぼくたちの体の中に残っているからです。この点はゲームと異なりまして、現実生活の「振り出しに戻る」には、深い意義があります。今日もぼくたちは恐れずに福音宣教の振り出しに戻りましょう。
【イエスが大切】
いわゆるクリスチャンにとって最も大切なのはイエスの福音だとぼくは思います。この意見に対して、違うよとおっしゃる方もおられます。たとえば、イエスが人間のために十字架にかかって死んでくださったことだとか蘇ってくださったことだとか、あるいはそれらを全部ひとまとめにした「福音セット(教会教義の福音)」が重要なのだと信じておられる方も多いでしょう。
しかし、福音セットにせよ、教会教義の元になっているのはイエス自身がお語りになった内容とそれに沿ったイエスの生き様です。ですから、ぼくらの出発点はイエスの言葉と、それに基づいたイエスの生き様であるとぼくは考えます。
行き詰まったり、路に迷った時には振り出しに戻ればいいと言います。ぼくたちが戻るべき振り出し地点は、イエスの言葉です。
イエスも、ユダヤ教がまとめた旧約聖書を教科書にした社会でお育ちになったのですから、旧約聖書まで戻るべきだと考える人もおられます。しかし、イエスが自分の考え方で批判的に旧約聖書を解釈し直したように、ぼくたちもイエスの視点に立って旧約聖書を解釈すればいいのだ、とぼくは考えます。ですから、イエスが語った言葉が一番大切なのです。
【模範のイエスがなかった】
ただし、イエスに戻ろうとすると、解決すべき課題が出て来ます。それは、イエスは何も書き残さなかったから、何を語ったのか、厳密には判らないということです。
この困惑(こんわく)は今に始まったことではありません。イエスが十字架で殺されてから数十年後の教会で、すでに始まっていました。なにしろ、イエスご自身を体験した人がめっきり少なくなってきていたからです。
教会と呼ばれる集団やクリスチャン(口を開けばキリスト、キリスト、というキリスト野郎)が出現して、ユダヤ教社会を混乱させたのです。同時にキリスト教会も社会の中でどの様に自分達を表現すべきか困惑したはずです。こんな時にこそ、イエスならどうなさるだろうか、と初めに戻って考えたかったはずですけれども、振り出し地点が判らない状態だったんでしょう。
そこに登場したのがマルコです。マルコはイエスを主人公にした物語を偶然書いたんじゃなくて、このような必要に迫られて、書いたのです。
【お宝を発見したマルコ】
マルコがイエスを描いた頃の教会では、イエスの壮絶な生き様と人間性が忘れられかけていて、メシア(救い主、キリスト)へと焦点が移動していたのでしょう。しかし、メシア待望のキリスト論は所詮、イエスと関係ないので、戻るべき振り出し地点ではありません。そこでマルコは、福音書を描くことによって、人間イエスを掘り起こし、お宝のような振り出し地点を発見してくれたと言えます。
マルコが残したイエスの物語は、ぼくたちにとっても、まるで、数百年もの間、海底に沈んでいたお宝のようです。覆っていた砂を取り除くと、腐食を知らない純金のコインが、鮮やかに蘇ってくるように、マルコは人間イエスというお宝をぼくたちに見せてくれました。
ユダヤ教やキリスト教という宗教の中に埋もれかけていたイエスの福音というお宝を再発見したのはマルコです。そういう意味でマルコの最大のお宝は「イエスの福音」です。
そして、ぼくにとって最大のお宝は、マルコが発見してくれた「イエスの福音」です。
イエスの壮絶な生き様を掘り起こして当時の人々の前に晒して見せたマルコのおかげで、二千年後のぼくたちも、イエスの真実で壮絶な生き様を見ることができるのです。
【イエスはなぜ語り出したのか】
当時のイエスの生き様がいかに壮絶(そうぜつ)であったか、またそれがなぜお宝であると言えるのかということを説明しておきましょう。
マルコ福音書は「これがイエスの福音です」という書き出しで、イエスを語り出しています。イエスは、まず「福音を信じなさい」と語り出した、とマルコは言います。教師でも指導者でもないイエスが、何を、なぜ語り出さなければならなかったのか。この疑問を解かなければイエスの福音を理解できません。ですから、回りくどい言い方をせず、大胆不敵に一言で表現すれば、ユダヤ教の指導者たち、すなわち同時にユダヤ経済の指導者であり利権者でもあった人々が「平和ボケ」していたからでしょう。
当時のユダヤはローマ帝国の属国であったことは確かです。しかしそのような状況下であったからこそ、ローマに取り入って、利権者となり甘い汁を吸っていたユダヤの指導者たちには危機感がなかったという意味です。
十字架につけるためにユダヤの最高法院がローマの地方総督ピラトの下にイエスを送った事実が、癒着を証明しています。
属国であるためにユダヤ庶民が苦しんでいても、ユダヤの指導者層はローマに守られた平和を楽しむことができたのでしょう。現代社会と同じ構図です。彼らにとってイエスは敵でした。イエスの偉業は当時の社会通念から逸脱(いつだつ)した「異業」でした。当時の社会組織の根底を成していたユダヤ教を否定したからです。宗教者が「神」と呼ぶ概念的存在を「パパ」と呼んだことからも、イエスが当時の宗教を否定していたのは明らかです。
弟子たちが、イエスを自分の主(キリスト)を神の子キリストにまで祀り挙げずにはいられなかったほどにイエスの「異業」は、当時の社会では(現在でも)受け入れられないものでした。イエスの言葉と生き様は、そのまま伝えてこそ、意義あるもの、後の世界の指針となるものであったにもかかわらず、イエスの生き様はあまりに激しかったが故に、後継者を自称するキリスト教会の指導者でさえ、自分の安全のために覆い隠したのでしょう。
【ぼくたちは】
そんな中でマルコが闇の中から掘り出した生のイエスは、真実を求める現代人にとって、最も大切な人の生き様なのだと思います。
ぼくは、イエスの言葉と生き様というお宝を発見した者として、その振り出しに再び立ち返って、新しい年を過ごして行くつもりです。