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「AIの説教はつまらない」20230528
「AIの説教はつまらない」20230528
聖書 使徒言行録 二章一節〜七節
今日は五殉節(ペンテコステ)と言われる教会の祭りの一つです。ペンテコステとはギリシャ語で五十番目の意味です。元は過越の祭りから七週目に行われていたユダヤ教の祭りでした。この日が殺害されたイエスの復活日から五十日目に当たることから、キリスト教では聖霊降臨祭として、教会の誕生日のような扱いにしたようです。日本でも葬儀から四十九日間は亡くなった人の親族に負担を掛けないで静かに見守る慣習があることから想像できるように、イエスと親密な関係にあった人々も、活動などできなかったことは理解できます。しかし、ペンテコステに起こった事件を契機に、弟子たちは生まれ変わったかのように元気になり、イエスが復活させられたことやキリストであることを怖がらずに述べ伝えるようになった、と教えられております。この弟子たちの活動によって教会ができたのでこの日が教会の誕生日だと言うのです。
【AIの説教】
さて多くの教会がこの日をどう受け止めているかを知るために、チャットジーピーティーに説教を作ってもらったので引用します。
「教会でペンテコステを伝える説教を作ってみてくれますか」とリクエストしたところ、下記の文章が返ってきました。
『もちろんです!以下に、ペンテコステに関連するテーマを含んだ教会の説教の例をご提供します。この説教は、聖書の箇所に基づいており、ペンテコステの重要性とその意義について説明します。
説教のタイトル「聖霊の降臨とペンテコステの祝福」
〔序文〕
みなさん、こんにちは。本日は特別な日、聖霊降臨の日であるペンテコステを祝うために集まっています。ペンテコステはキリスト教の祭りの一つであり、聖霊が初めて使徒たちに降り注がれた日です。この日を通して、私たちは神の力と愛をさらに深く理解し、共有することができます。聖書の箇所から学びながら、私たちの信仰と生活において聖霊の働きを体験しましょう。
〔第一部 聖霊の約束と予告〕
聖書の箇所:ヨエル書 二章二十八節〜二十九節
兄弟姉妹たち、ペンテコステの意味を理解するためには、聖書における聖霊の約束と予告に目を向ける必要があります。ヨエル書の二章二十八節〜二十九節では、神が聖霊の降臨を予告されています。「後の日には、わたしはわが霊をすべての人に注ぎ出す。あなたがたのむすこ、むすめは預言し、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見るであろう」と言われています。この予言は、ペンテコステの出来事に繋がるものであり、新しい契約の時代において聖霊の力が広がることを示しています。神は聖霊を通して私たちに力と啓示を与え、神の国の福音を広める使命を与えられました。
〔第二部 ペンテコステの出来事〕
聖書の箇所: 使徒行伝 二章一節〜十三節
ペンテコステの出来事自体が記されている箇所は、使徒行伝の二章一節〜十三節にあります。この章では、イエス・キリストが天に上げられた後、使徒たちが一同に集まっていた時に、聖霊が風のような形で降り注がれ、使徒たちは新しい言葉で語り始めました。この出来事によって、使徒たちは力を受け、福音を広める使命を果たす準備が整いました。
ペンテコステの出来事は、聖霊の働きと力の明確な証しであり、神が約束されたとおりに私たちを導かれることを示しています。聖霊は私たちの内に宿り、信仰の旅において私たちを励まし、力づけ、導いてくださいます。
〔第三部 聖霊の力と働き〕
聖書の箇所 ガラテヤ人への手紙 五章二十二節〜二十三節
ペンテコステは聖霊の降臨を祝うだけでなく、聖霊の働きと力を私たちに思い出させる機会でもあります。ガラテヤ人への手紙の五章二十二節〜二十三節では、聖霊の実りについて述べられています。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、信仰、柔和、自制である」。これらの実りは、聖霊が私たちの内に働きかける結果であり、私たちの生活やキリスト教徒としての特徴を表しています。
聖霊は私たちに力を与え、私たちの内に宿ることによって私たちを変え、神の愛を周りに広めるための使命を果たすことができるのです。
〔結び〕
兄弟姉妹たち、ペンテコステは聖霊の降臨とその力を祝う日です。聖霊は私たちの内に宿り、私たちを励まし、導き、変え、力を与えてくださいます。私たちはペンテコステを通して、聖霊の働きを再確認し、神の愛と力をさらに深く体験する機会を与えられています。神が私たちに与えてくださった聖霊の力を受けて、私たちは愛と喜び、平和と寛容、親切と善意をもって周りの人々と接しましょう。そして、私たちの行いと言葉を通して神の愛を示し、福音を広める使命を果たすために聖霊の導きを求めましょう。ペンテコステの祝福が、私たち一人一人と教会全体に満ち溢れるように祈りましょう。アーメン。』
以上がAIが作ったそれらしい説教です。
【教えは現実に合っていない】
こんな説教で満足する人がいるのでしょうか。AIが作った説教は、岸田文雄総理が国会答弁で読み上げている誰かの作文と同じで、内実がありません。何よりも神や神が人間界に送った聖霊が実在していることをAIが前提にしていることは異様です。旧約の予言が新約において実現したという論理も飛躍し過ぎています。
イエスが神から遣わされたように、イエスの死後は聖霊が神から遣わされたという主張は、神は形を変えてこの世に直接介入できるのだと言っているに等しいのです。聖霊降臨という奇跡を使徒たちが体験したと言われましても、ぼくたちの現実に何も起きないので、無意味です。信者になれば理想的な生活ができるなんてこともありません。困っている現状を祈りで訴えても、信者の事態は改善されません。信者を救うために自然界や人間社会に介入(割り込み)できる神などいない証拠です。そうであるにもかかわらず、現実を無視して、信者のために介入する神がいるなどと教会が教えるのはなぜでしょう。
常識的に考えれば判ります。人として生きたイエスが殺されて目の前からいなくなった現実を補う説明をするために、教会が後の時代に助け手なる聖霊を付け加えただけです。
【ぼくたちは】
教会が聖霊を創造して訳のわからない三位一体論を展開したのは四世紀以降です。その時代の教会会議の決定に執着(しゅうちゃく・心がとらわれる)する必要はありません。そろそろ、目覚めましょう。
人間イエスは人間だったから、周りの人の生活に介入することができました。イエスの生き様や考え方は、イエスの死後もぼくたちの生活に入り込んできます。しかし、実体のない神や聖霊はぼくたちの現実の生活に介入できません。だから本当に大切にすべきは、神でも聖霊でもなくて、ぼくたちに直結する人間イエスなのです。真剣に丁寧にと岸田文雄総理のように口先で言うだけではなく、ぼくたちは本当に人との関係を真剣に大切にすることにいたしましょう。