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「リラックス信仰」20220911
「リラックス信仰」20220911
聖書 マルコ福音書 四章三十五節〜四十一節
信仰するというのは堅苦しい生活に入ることだと思っている人が多いのですが、それは大きな勘違いです。信仰は安心と深い関連があります。これに対して信心は不安と深い関連があるのです。信仰は、信心することではありません。この二つは、全く異なる状態のことです。
信仰と信心を混同すると精神が混乱します。混乱している精神を整理してあげると生活が落ち着くはずです。そのような状態を救われた状態だと言うことができます。信じ難いことを信じ込む努力(信心)を捨てて、あなたを認めてくれる信仰の状態に入ることをお勧めします。
【無駄な努力をしない】
熱心に信心するという言葉があるように、信心は努力するものだと考えられているはずです。
努力することは良いことだと教えられ、そう信じている人が多いので、信心する人が尊敬されるのでしょう。けれども、無闇(むやみ)に努力すれば良いってもんじゃありません。無意味な努力をすれば疲弊(ひへい・疲れ弱ること)するだけです。
かわいい子どもの運動会の前日に、晴れますようにと祈る親の気持ちは判りますがそんな祈りは叶いません。その日の地球の条件次第です。
線状降水帯が襲ってきそうな時に、祈りでそれを避けることはできません。闇の中で剣(つるぎ)を振り回しているようなもので、疲れるだけです。熱心に祈る努力は無意味です。
災害の時に如何にして難を逃れれば良いのかを必死に考えてそれを実行に移す努力をするべきです。もしも闇の中で襲われそうな時には、剣を振り回す努力をしないで、耳に入る音や皮膚に感じる気配に集中する方が役に立つはずです。何をすれば良いのかを見定めて努力する必要があるのです。
【努力すべきことを探す】
自然災害に加えて人災の脅威が増しています。今年に入ってからのロシアによるウクライナ侵略はその最たるものです。対岸の火事ではありません。尖閣諸島(せんかくしょとう)の領有権を主張している中国は、日本の船を近づけないようにしています。まるで中国が自国の島を守っているように見せかけているのです。島根県隠岐(おき)の島町に属する竹島は1954年6月から韓国に占領されたままです。ソビエト連邦の崩壊(1991年)後も、ロシアは日本の北方領土を占領したままです。
元来の日本の国土を不法に占領している国と仲良く貿易しましょうなどとは言えないはずですのに、ニコニコ、ヘラヘラしているようにしか見えません。とにかく、ぼくたちは抵抗できないまま翻弄(ほんろう・思いのままにもてあそぶこと)されている、どうしようもない現状です。祈っても解決しません。無意味な努力をする必要はありません。けれども、何かの策を考えることに努力する必要はあるはずです。
【日暮れの舟出】
今日の聖書にはイエス一行の小舟が嵐に見舞われた様子が描かれております。
明け方にではなく、夕方になってからイエスは湖を渡って向こう岸へ行こうと言ったのだそうです。本当なのでしょうか。なぜこんな危険な行為をイエスがしようとしたのかわかりません。嵐に遭うことを承知の上で、風や波さえ従わせることができることを見せつけて、弟子たちを脅かそうとしたのでしょうか。イエスの先見性と奇跡を信じ込んでいる人の中にはそんなふうに考える人がおられるでしょう。しかしまさかそんな子どもじみた悪戯(いたずら)をなさったとは思えません。イエスは夜の湖に舟を漕ぎ出す危険性を十分に認識していなかった可能性が高そうです。一方、元漁師で舟の扱いにも慣れていたイエスの弟子たちは夜の湖に舟出する危険を十分に知っていたはずです。
そうだとすれば、無理に船出しようとしたイエスを止めるべきだったと思います。本当にあった出来事だったならば、先生に自分の意見を言えない弟子たちというのは、なんとも情けない人々です。聖書の読み方や、宗教儀式に関してイエスに意見できなかったとしても、移動手段に舟を使うことになれば、元漁師たちの方が専門家です。テレビに登場するいいかげんな専門家ではなくて、純然(じゅんぜん・まさしく)たる専門家だったのですから、「お言葉ですが、明日の明け方まで待ちましょう」と一言、諫言(かんげん・いさめること)すべきだったのです。
舟出してしばらくすると風が強くなり、波も荒立ち始めて、舟が沈むかと恐れるほどになったと言います。漁師たちでさえ舟を操ることを諦めて、眠っていたイエスを起こして「先生、わたしたちが溺れてもかまわないんですか」とイエスに詰め寄ったそうです。こんなふうにイエスを責めるなら、舟を出さずに「夜が明けるまで待ちましょう」と専門家の立場から言うべきだったのです。
イエスは起き上がって、風を叱(しか)り、湖に「黙れ。静まれ」とおっしゃった。すると風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった、と書かれています。この記事を取り上げて、嵐を鎮(しず)めるほどの奇跡をなさったイエスの偉大さを強調する説教者は多いです。しかし、それは強調点がズレています。
大切なのは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という部分です。
夜の湖に舟を進めている時に、嵐に出会ったとしても、無謀(むぼう)を知りつつもイエスの言葉だからというので従ったのであれば、オロオロしないでいいじゃありませんか。方向さえも見失って、舟を操(あやつ)ることができないとしても、全員で水を掻き出すことぐらい出来たはずです。知りませんが。それぐらいの努力はできそうです。事態を恐れて、イエスに悪態をついても、状態は良くなりません。水を掻き出すなど、自分の努力でできることをして、風が止むのを待てばよかっただけです。
「黙れ。静まれ」と言ったイエスの顔は湖に向けられていましたけれども、本当は弟子たちに対しておっしゃった言葉のように思えます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉はイエスから不甲斐(ふがい)ない弟子たちへのお叱りの言葉です。
【ぼくたちは】
いくら怖がってもしょうがないことを怖がるな。力(りき)んでもどうしようもないことに力(りき)むな。力むなとは、つまり息を止めて必要以上に力を入れるなということです。意気込まず、気負わないでいいのです。
助かるかどうか判らないのに、必ず助かると信じ込んで祈っても、疲れるだけです。水は掻き出すけれども後はどうにでもなれと思うしかありません。必要があれば生かされるだろうと思えば良いんです。できることしか、できないのです。自分ができないことは手を離していいんです。リラックスすればいいんです。自分がやらなければならない、などと信心深い人のように思い込んで頑張ってもできないことはできません。髪の毛一本白くも黒くもできないと言われている通りです。そうであるならば、体の力を抜いてリラックスして、後はよろしくと委(ゆだ)ねる。これが信仰なのです。
信仰とは受け入れ合う状態のことです。無駄な力を抜いてリラックス信仰で生きましょう。