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「何をしたいのか」20200112
「何をしたいのか」2020年1月12日
聖書 マルコ 十章四十六節~五十二節
唐突ですが「何をしてほしいか」と尋ねられたらどうなさいますか。答えに窮(きゅう)しませんか。
答えがある人は、何かに窮しておられるのかもしれません。一方、あなたに、明確な希望がないとすれば、それはそれで、果たして幸せなのかな、ボーッとしているんじゃないかな、と不安にもなります。
今日の話の主人公に、「何をしてほしいのか」とイエスは尋ねました。主人公バルティマイはティマイの息子という意味です。「あのティマイの息子」と表現されていることから、ティマイという名のお父さんは、マルコが福音書を書いた頃には、教会の中で名の通った人であったように思えます。
さて、イエスに出逢った頃のバルティマイは、エリコという町の城壁の門の前の道端に座って物乞いしている盲人でした。
「ナザレのイエス」が町から出てきたことを察知したティマイは「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」とイエスに叫びかけます。
弟子たちや群衆が、彼を黙らせようと叱りつけると、なお一層「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫ぶのでした。
バルティマイの声を聞いたイエスは、「彼を呼んで来なさい」と弟子たちに告げたので、彼はようやくイエスの前に来ることができました。
【盲人バルティマイの願い】
イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねると、バルティマイは「ラビ(先生)、目が見えるようになりたいのです」と即座に答えました。彼の望みは明確でした。バルティマイにとって盲目だということが一番の悩みの種であったんです。
盲人であることは、彼が罪人に認定されていたことを示しています。なぜなら、病気や障害を持っていることは、罪人の証拠だというような考え方があったからです。当時に限ったことではなくて現代でもそんな風潮があるくらいですから、当時はもっと露骨な差別があったはずです。町の門の外の道端に座って物乞いをしていた、ということは、町に入れてもらえないほどの差別を受けていたことを示しています。
イエスが活動なさった社会は、極めて宗教心に富んだ社会でしたが、バルティマイを徹底的に差別する社会だったことも事実です。
彼の身体的な特徴は、彼の責任じゃありません。しかし、まさにそのことで、彼は社会から差別を受けていました。宗教は必要だ、とか宗教心を持つことは良いことだ、とか言われておりますけれども、宗教の実態を見ると、極めて激しい差別を生み出すものであることが判ります。彼はずっと差別的な宗教社会で育てられてきたので、町の門の外に座っていたんです。
しかも、叫び出したバルティマイを人々は阻止しております。人々の心の中に、彼を差別している気持ちがあったことは明らかです。
ですから、彼の願いは、生活がかかった願いであっただけでなく、それ以上に、全存在の掛かった願いだったはずです。彼は盲人であるが故に、自由に動けず、生活のためにも働けず、物乞いして、人々が憐れに思って恵んでくれる少しのものにすがって生活することしかできなかったということです。それに加えて、社会からの差別を受けて暮らさねばならなかったんです。ですから、ぼくらの考えが及ばない辛(つら)さを抱えていたに違いありません。
この悩みの種を取り除いてほしい、というのが彼の一番の望みでしたから、彼はイエスに願いを託して叫びました。ナザレのイエス(ナザレ出身のイエス)だと知って、精一杯のおべんちゃらも込めて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだんでしょう。
ここに「ダビデの子」と書いてあるからやっぱりイエスは「ダビデの子」なんだ、などと思ってはなりません。そうじゃなくて、イエスが人であったことを強調するために、わざわざ「ナザレのイエス」という表現を、マルコが付けていることが重要です。
【盲人は憐れむべき存在じゃない】
人々が、盲人を憐れむべき存在として扱ってきたことは否めません。あなたも、盲人を見れば「かわいそうに」と思うでしょう。「かわいそうだから何かしてあげなければいけない」と思うのが人の道(道徳)であると教えられてきました。しかし、そのように決めつけてかかるのは、背景に差別意識があるからだと思います。「かわいそうだから、助けてあげよう」と思うのは善いことのように思われていますけれども、「かわいそうだから」というんじゃなくて、もし助けが必要なら助ける用意がある、という程度でいいんじゃないかと思います。本人の希望を無視して、勝手な思い込みで助けようとするのは、自分中心の考え方だと思います。
【イエスは差別なく対応した】
イエスは盲人に対して、「何をしてほしいのか」と問いかけました。
盲人が「わたしを憐れんでください」と言っているんだから、尋ねなくても「見えるようにしてほしいに決まっているだろう」と思いがちです。それなのに、イエスは「何をしてほしいのか」と問いかけました。訊かなくても分かっているはずのことを、自分の口で言わせるなんて、「失礼な人やなぁ」と、昔は感じました。ところが、こんな思いは、まるっきり違っていたことが、後で判りました。相手の思いをこちらで決めつけてしまうことの方が失礼なことです。見えないことは良くないこと、異常なこと、困ること、などと勝手に決めつけていたんだということが今は判ります。すなわち、盲人に対する偏見や差別が、ぼくにもあったということです。このように、人道主義(ヒューマニズム)には偏見と差別があるので気をつけてください。
ところで、「何をしてほしいのか」とイエスは盲人バルティマイに問いかけております。イエスが差別や偏見を押し付けていないことが判ります。
このような言葉で、自分を対等に置いてなされた質問を受けたのは、バルティマイにとっては、初めてだったんじゃないでしょうか。
もしも、バルティマイが、生活スタイルを変えるつもりもなく、それまでの延長線上で生活するつもりでいたならば、「小銭じゃなくて大銭を恵んでください」と言うこともできたはずです。しかし、バルティマイは、「先生、目が見えるようになりたいんです」と、ハッキリ返答しました。
自分の口で、自分の言葉で「どうなりたいか」を言いました。弟子たちのように権力や財力を欲しがったんじゃなくて、バルティマイは、自分の生活を自分で作りたいと願っていたんでしょう。
【イエスの応答】
「目が見えるようになりたいんです」と言ったバルティマイの希望を聞いたイエスは、「見えるようになりなさい」と言わずに、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と応えております。問いと答えがズレているように感じられますけれども、深い意味があるんでしょう。
結果的には、盲人は見えるようになって、イエスに従ったとあります。どのようにして見えるようになったのか、さっぱりわかりませんけれど、とにかく、この後バルティマイは、自分の意思でイエスについて行ったようです。
【あなたの信仰】
「行きなさい」「君の信仰が君を救った」というイエスの言葉は理解に苦しみます。しかし、イエスの言葉は、盲人であることのゆえにバルティマイが受けてきた差別的待遇や、彼が強いられてきた生活範囲への縛りから、彼を一気に解放したようです。
この物語から判ることは、イエスの言葉に登場するこの「信仰」は、ぼくたちが教会で教えられてきた「信仰」とは全く別物だということです。これらを同じものだと思い込んだまま、イエスの言葉の意味を考えても、理解できません。教会が教えてきた「信仰」と、イエスが語ったこの「信仰」は関係がないと考えれば、今日のイエスの言葉を理解することができる、と思います。
バルティマイは、自分の意思をはっきり持っていて、その願いをイエスにぶつけただけです。イエスならわかってくれると思えたんでしょう。イエスがバルティマイに見た「信仰」の内容は、その程度のものだったはずです。しかし、自分の望みをはっきり表明できたことで、彼の願いは明確にイエスに伝わりました。イエスは、それを受け止めて、ただ彼を後押ししてあげただけだと思います。
【あなたもバルティマイのような盲人かも】
現代には、社会に馴染(なじ)めず、疎外感(そがいかん)を持ち、社会から隔絶されたところ(たとえば自分の部屋)に閉じこもって、哀れみを受けて生活している若者が、たくさんいます。
不自由な世界に縛られ、自分で自分を縛り付け、行きたいところに行こうとしないどころか、行けないと思い込んでいる状態は、あたかも、何かに囚われているかのようです。
座り込んでいる生活に慣れてしまって、行きたいところに行けない、と思い込んでいるのは、若者だけじゃなくて、あなたも同じかもしれません。自分のしたいことが何か、を考えてみることもして来なかったんじゃないでしょうか。
「何をしてほしいのか」とイエスから尋ねられたら、あなたは、答えられるでしょうか。あなたは、自分の気持ちを、伝えられるでしょうか。
イエスから問いかけられた盲人バルティマイは、自分が行きたいと思った所に行けるようになるために、まずは「見えるようになりたい」と明言しました。それが叶えば、あとは自分で、なんとでもする、というバルティマイのそんな決意と希望を、イエスは「君の信仰」と呼んだんでしょう。そして、「君の信仰が君を救った」というイエスの言葉によって、バルティマイは、宗教社会の囚われから解放されたんだと思います。
【イエスがなさりたかったこと】
イエスがなさりたかったことは、バルティマイのように宗教社会の概念に囚われている人に、宗教から自由になっていい、ということを宣告し、実際に宗教や社会による差別や囚われから、解放することだったと思います。社会からあてがわれた場所にとどまっていないで、また、できないと諦めないで、「自分が行きたいところに自分で行け。君の思いが君を救う」「君の思いが君の思い込みを取り払う」そのように言って、バルティマイが心で決めたことを、イエスは後押ししてあげたんだと思います。誰に何と言われようとも、本人の願いがあれば、どこに行ってもいいんです。ただし、その一歩を踏み出すことができるのは本人だけです。ですからイエスは、バルティマイの願いを応援してあげたんでしょう。
【ぼくたちは】
思い込みの縄目を取り払うことを、応援してくださるイエスの言葉を知らされたんですから、ぼくたちも宗教や社会の概念から自由になれること、自立できることを確信して、歩み出しましょう。
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