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「選ばれし者は野に居る」2020.11.22
「選ばれし者は野に居る」2020.11.22
聖書 マルコ 十二章三十五節〜四十節
旭川教会も、休止が決まっているという知らせがメールで入ってきました。
「野の花のままでいい」とイエスが、ぼくたちにおっしゃった言葉を、先週は見ました。
イエスは、自分だけがソロモンのように、安全で裕福な場所にいて、高いところから群衆を見下ろすようにして、こんな言葉を語ったわけじゃありません。
ローマ・カトリック教会の法皇は、飾り立てられ、敬われていますけれども、イエスはみすぼらしい姿で、辛い立場にありながら、「栄華を極めたソロモン」のようにならなくても、「野の花は、野の花で、すばらしいじゃないか」とおっしゃったんです。負け惜しみじゃなくて、本当にそう考えていたに違いありません。それがイエスの生き方に現れています。もしそうでなかったならば、イエスは「野の花はすばらしい」というような福音を語れなかったはずです。
【イエスの出自】
イエスを、メシア(救い主・キリスト)と同一視したかった教会は、イエスがダビデ王の血統であると言ってきました。
しかし、実際のイエスは、差別されて苦しめられていたはずです。というのは、母親しかはっきり判っていなかったからです。現在でもそうなんですから、当時は、ぼくたちが想像できないほどの差別を受けていたに違いありません。
育ての父は大工のヨセフですが、生みの父は判っておりません。多くの人が知らなければ、ヨセフを実の父にしておけばよかったんでしょうけれども、そうはいかない実情があったんでしょう。父が判らない、ということを隠さないで、むしろ明確に強調しているんですから、事実を逆手(さかて)に取って、イエスが特別な人であった事を示す証拠に使おうとしたかのように思えます。そこで、父が判らないということが、イエスの第一番目の特徴になっています。
イエスは、ヨセフとマリアが旅の途中で立ち寄ったベツレヘムで生まれたことになっていますが、故郷がナザレであったという記述もあるので、はっきりしたことはわかりません。ベツレヘムで生まれたということ自体が、神話の素材の一部であるように思います。いずれにしても、イエスの生まれについては、マルコが何も語っていないように、どうでもいいと思います。とにかく、このように、秘密のヴェールに覆われています。偉人の出自というものは、こんなもんです。
真実が何か、ということに関係なく、神秘として語られるのが神話なんでしょう。そして、判っても判らなくても、何も言わずに、そのまま認めていくのが信仰者の姿勢なのかもしれません。
それで、何も問題が無ければいいんですけれども、そのままじゃ支障がある、とぼくは思います。神話は現実のイエスの福音を覆い隠してしまうと思うからこそ、ぼくは神話に盾ついているということを判っていただければ幸いです。
神話を好む人が多いので、キリスト教の教会歴では、多くの時間を割きます。クリスマスもその一つです。多くの人の気持ちを逆撫でしますけれども、神話にこれほど多くの時間を割く必要はない、とぼくは思います。神話の端々から多くを学ぶことなどできない、と思うからです。
イエスは、栄華を極めたソロモンと対照的に、野の一輪の花を褒めました。そのようなことを言ったイエスが、ユダヤとイスラエルを統一したダビデ王と関係が無い、という主張は重要です。なぜなら、イエスが野の花を愛(め)でるような人であったからこそ、野の花のようなぼくたちとも関係が保てるからです。
【問答ではない】
マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書に今日の並行記事が載っておりますが、そのすべてに「ダビデの子についての問答」という小見出しが付けられております。しかし、マルコの記事をよく読んでみますと、「イエスは神殿の境内で教えておられたとき」、イエスが律法学者たちの言い伝えや教えを批判したのを聞いた群集は、「イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とある通り、イエスは、神殿運営による利権を持っていたユダヤ教の専門家たちを、公然と批判しただけです。時の権力者たちを軽妙に批判するイエスの言葉を群集は喜んで聴いていたということは、群集はイエスを自分たちの味方として受け入れたということを意味しています。イエスは問答していません。ですからマルコの小見出しは間違いです。この機会に、マルコの小見出しから「の問答」を消しておきましょう。
【ダビデについて】
さて、ちょっと時代背景を見ておきましょう。ダビデというのは、イスラエル王国を実質的に統一した王です。
ダビデより前にサウルという王がいますが、サウルの時代はまだまだ不安定です。ダビデが南ユダと北イスラエルの分裂を抑え、王政を確立したと言っていいでしょう。
しかし、ダビデの息子ソロモンは贅沢で身勝手な政策を実施しました。そのためにソロモンの死後、国は分裂してしまい、弱体化した国は、周りの強大な国に侵略され、国民は悲惨な目に遭わされてきたんです。バビロン帝国、ペルシャ帝国、そして、イエスの時代はローマ帝国の支配に屈している状態でした。ですから、このような強大な帝国の圧政から解放してくれる王を民衆は待ち続けていました。その解放者のことを「メシア」=「救い主」=「キリスト」と呼ぶんです。現代アニメ風に言い替えますと、「選ばれし者」といったところです。〔メシア(救世主)は「油を注がれた者」という意味のヘブル語。キリストも「油を注がれた者」という意味のギリシャ語〕
イエスの時代には、ローマ帝国の軍事的な圧政から解放してくれるメシア(解放者)の出現を、民衆は待ち望んでいた、と言えるでしょう。とは言いますものの、力の差は歴然としており、このような望みは現実的でないことは、有識者の目には明らかであったはずです。そうであるにもかかわらず、民衆が軍事的な解放者を待ち望んでいたとすれば、民衆は実現不可能なメシア待望伝説を、宗教指導者たちによって、抱かされていただけかもしれません。
そういう状況で、イエスは、全く異なった教えを展開しました。イエスの教えは、単に宗教指導者たちを批判したのではなくて、民衆の目を開かせるためであった、と言えそうです。
今日の言葉を語る少し前に、イエスは、みすぼらしい仕方で、馬ではなく平和を意味するロバの子に乗ってエルサレムに登場しました。そんな格好のままで、どうどうと、宗教指導者たちを批判しました。まさに強烈な批判でした。
【メシアはダビデの子ではない】
イエスは、詩編一一〇編一節を引用して「ダビデ王自身がメシア(救済者・救い主)を主と呼んでいる」のだから、メシアはダビデの子(子孫)であるはずがない、と言いました。「メシアは、ダビデ王の家系とは関係がない」という解釈をイエスは示したんです。律法学者たちが頼っている権威ある聖書を利用して批判したのは、律法学者たちが反論できないようにするためです。
ユダヤ・イスラエルの宗教指導者たちというのは、支配者であったローマの皇帝の権力に守られ、ユダヤの自治権を与えられていたヘロデの権力に守られ、自らが権力者のように振舞っていた人たちです。ということは、はっきり言って彼らは当時の利権者たちだったわけです。そうだとすれば、当時の指導者たちの本心は、既得権を守り抜きたかっただけだと思います。
彼らも、支配者ローマを倒してくれる王なるメシアの出現を期待していた、と昔は言いましたけれども、今は、そうではないと考えるようになりました。先週も言ったように、お金や権力の流れを見れば理解できます。現代社会にもそのような人々がいっぱい居ることでも判る通り、利権者たちは、変化を求めていなかったはずです。
【軍事的な救済はない】
そういう現状の中で「メシアはダビデの子孫ではない」と言ったイエスは、軍事的な救済など、あきらめるように、と民衆に悟(さと)しているようです。聖書解釈を通して宗教指導者を批判することによって、指導者の言葉を信じていた群衆の目を開かせようとしたんでしょう。
そんな意図を持っていたからこそ、「律法学者に気を付けなさい。律法学者の言葉を聴くんじゃない。」とイエスは民衆に語ったんでしょう。
権力や専門家による支配構造を、ここまで徹底的に否定したことによって、イエスは、本当に庶民の味方だと認知されたに違いありません。
【ぼくたちと同じ立場であることが重要です】
教会では、イエスはダビデ王の子孫だと教えてきました。そんな歌詞の讃美歌もあります。このようなことになったのは、マタイ福音書の初めに「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書かれていたからです。しかしそれじゃだめなんです。イエスが、みすぼらしい状態であることが大切なんです。注意して読めば判るように、マタイは、系図の最後に、イエスはダビデの血に繋がっていないことを明確に示しています。そうだとすれば、マタイが書いた系図も、「メシアはダビデの子であるはずがない」と言ったイエスの言葉と合致しているんです。
【ぼくたちは】
よく覚えておきましょう。イエスの誕生は「ダビデの子、イエス・キリスト」の誕生じゃありません。イエスの誕生は人間イエスの誕生です。
実際に、多くの人が苦しんだ結果としてイエスは生まれました。だからイエスは、現実の社会で苦しんでいるぼくたちの代表でもあるんです。これが喜ばしいことなんです。
野の花のように育ったイエスを、王座に押し上げてはだめです。なぜならば、力に頼らないイエスでしか、福音を語れないからです。野の花は、野に咲いているからこそ、ぼくたちはイエスの福音を聴くことができるんです。「イエスの誕生祭」(クリスマス)は、一輪の花が、王宮ではなく野に咲いたことを喜ぶ日にしたいものです。