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「賄賂(わいろ)お好きですか」20220514

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「賄賂(わいろ)お好きですか」20220514

聖書 創世記二十二章一節~十

 

 ぼくは小さかった頃、七十年近く前のことなのでほとんど忘れましたけれども、にくっ付いて、何度も清荒神(きよしこうじん)さんにお参りておました。阪急宝塚駅の一つ手前清荒神駅からお山の本堂まで参道が続いております。情報を調べてみましたら、駅から本殿まで徒歩十五分と書かれていますが、子どもの足でしたから、上り坂で、すごく遠くに感じました。

 山門を抜けますと、境内にはたくさんのお堂がありました。その全てにご挨拶して回るので時間もかなりかかります。お参りをると、清荒神駅までの下り道の両側たくさん並んでいるお店が気になります。その一つで、だし汁で食べるたこ焼きいわゆる明石焼き)を食べさせてもらうのが楽しみでした。さまのご褒美とはこんなもだなと思っのです。今日はたこ焼きの話をしたかったのではございません。

 境内の方へちょっと戻っていただきましょう。山門を入ると正面本堂、左に大きな拝殿、その周りを囲むようにたくさんのお堂がありまして、そこを順番に一つ一つに賽銭して願い事をしてります。ぼくも一円玉を二十枚ほどもらいまして、一箇所に一円ずつ、お捧げしながら回ったのであります。母の賽銭は、ご縁が続きますようにと五円だったように思います。賽銭は始終ご縁がありますようにと四十五円(しじゅうごえん)が良いという話も最近聞きました神事仏事にはなぜか語呂合わせが多いものです。

 商売繁盛家内安全という大きな願いをする割には賽銭が少な過ぎるのじゃないかと子供心にも思って尋ねましたら、金額の問題ではないんや、捧げる心が大事なんや、と教えてもらいましたが、納得していませんでした。

 荒神さんは火の神様ですから、家の台所には火の用心お札(ふだ)が貼ってありました。今は二千円ほどでいただけて一年間有効だそうです。エヌエッチケーの受信料領収済みのステッカもらうより済みます。

 このようにお金を捧げるとか、これからはあなたの命令に従いますから私を守って恵みを与えてくださいと祈るような行為を「神と商売している」ようだと、ぼくはかねがね言ってました。ところが、先日の聖書楽講座の時に、ぼくの表現に対して疑問が投げかけられたのです。

 商売というのは、対等の立場でするものであるのに対して、人間は決して神と対等では無いのだから、神にお願いする行為は決して「神と商売する」という感覚ではないだろう、という意見でした。

 考えてみるとその通りだと思いま。気に入らないことをして怒らせでもしたら大変なことになると思えるほど強大な権力を持ったを相手に「商売しよう」などという大胆な人はいないかもしれません。昔から「触らぬ神に祟(たた)りなし」という諺(ことわざ)があるくらいです。できれば近寄りたく無いというのが多くの人の本音かもしれません。

 立場が下の人間が神から少しでも目をかけてもらおうとして捧げるものですから、神に賄賂(わいろ)を贈るという表現の方が適しているんじゃないかという意見をいただいたのであります。さすがですね。毎回、牧師から同じような話を聴かされている側が不備に気づいて、修正意見を出してくださったのです

 

賄賂

 オリンピックで有名になりましたように賄賂(わいろ)というのは、ちょとでも良いお仕事をわたしの方に回してくださいますようにとお願いして、裏でそっと何かを差し出すんです。昔は「袖(そで)の下」と言いました。小判を包んだ饅頭の菓子折を差し出すようなものだとすれば、神を悪代官のように思っているのでしょう

 とにかく捧げ物をもって来いというような神様像を想像してしまうのは、人間がそれほど悍(おぞ)ましくなっているからでしょう。

 

【アブラハムについて】

 二〇〇五年五月一日「アブラハムの信仰」二〇十一年五月二十九日「アブラハムは信仰心を克服した」という題で説教していますが、今できる説教ではありませんので、訂正する意味を込めて本日取り上げました

 アブラハム信仰の父と言われています。妻サラとの間は、二十五年待って生まれた息子イサクがいます。多くの財産を手に入れたアブラハムは待望の跡継ぎができてから心配事も怖いものもなかったように見えます。しかし、本人はそうではなかったようです。全てを与えてくださった神が突然にその全てを奪い去るかもしれないと恐れていたように思われます。その恐れを現実に感じたのが今日の場面です。「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という神の声をアブラハムだけが聞いたのだそうです。

 

有無を言わせぬのイメージ

 こんな理不尽な命令にもアブラハムは従おうとしたようですれがアブラハムの信仰だとして信仰の父だと言われているのですが、よほど怖いイメージをもった神を教えられていたんでしょう。他人のうわさ話や自分の思い込みを信じ込むことが信仰だとはぼくには思えません。とにかく、アブラハムが信じる神は息子を捧げよと要求する神だったようです。

 神を怖れて神には黙って従わなければならないと強く信じ込んでいたアブラハム黙々と息子を捧げる準備を始めて、次の日にイサクを連れて出かけました。三日目に目的地が遥か遠く見えた所に共の若者たちを待たせ、二人だけでへ進みました。モリヤという山の頂上薪(たきぎ)を組み終わったアブラハムは息子を縛ってその上に載せ、刀を抜いて、息子を切り裂こうとまでしました。
 まさにその時に、「その子に手を下すな。何もするな・・・」という声をアブラハムは聞いたといいます。殺せと言うのも止めよというのもとにかく神なんです。アブラハムが命令に従うかどうか、神は試しただけだなどと教えられましたけれども、試す神など浅はかですそんな神の言うなりになっていたアブラハムは信仰の父などではなくて虚構の神を怖がっていた臆病者にすぎません神の命令ならば息子も殺すような人を父に持ちたくありません。アブラハムの硬い信念なんて、狂信的な弱者の思い込みでそんなものは信仰じゃなくて、妄信に過ぎません
 神が最愛のものを奪い取ろうとしていると勘違いした狂乱状態の中でしたけれどもアブラハムは最後の行為を思いとどまりました。
 アブラハムが息子を殺せなかったのは、自分より神より息子を大切にしたからです。見えない神への狂信を止めることができるのは、人間関係ある愛だけです
 

【ぼくたちは】

 ただ泣くだけしか出来ない子どもを、母親が心血注いで育てるように、人は周りの人々から支えられて生きています。
 イエスが神に祈らずアッバ(父ちゃん)に祈ったように、人を大切に扱う親子のような人間関係こそ命令する神を追い払うことができるです。愛という人間関係こそが、妄想の神への恐れから人を立ち直らせることができるのです。神の名を利用する人間たちから助け出してくれるのは、あなたを愛する人で
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