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「時間のない特異点に神は存在しなかった」20230430
「時間のない特異点に神は存在しなかった」20230430
聖書 創世記 一章 一節〜八節
先日スティーブン・ホーキングの本「ビッグ・クエスチョン(人類の難問)に答えよう」を読みました。「神は存在するのか?」というビッグクエスチョンを取り扱っていたからです。
まだ物質も存在していないビッグバンのような特異点では時間も空間もなかったと言います。無から有を生じさせる神がいる時間もなかったので、世界を創造なさる前に神は何をなさっていたかという問い自体が成りたたないのです。簡単に言えば、特異点では神も存在しません。
【質問を終わらせる神】
ぼくたちは不可解な現象に取り囲まれて生活しています。説明できないことを納得させるために人間は神を想像したのでしょう。
なぜ人間は苦労するのか。真面目に働いて家を作り作物を育てても、刈り入れ直前に全てが流されたり焼き討ちに遭ったりするのか。大切な人がなぜ死ぬのかなど、わからないこと、多くの理不尽なことに人間は悩まされてきました。
働けば作物が良く育つという因果関係をよく理解していますけれども、それらが突然に消失してしまうことの原因(意味)がわからない場合もあります。原因を見つけて納得したいのが人間というものです。そこで行き着いた原因の一つが、ぼくたちの知恵を超えた存在が全てを取り仕切っているという考え方です。この世界はどのようにしてできたのか。誰が作ったのかという疑問をもつことは不思議ではありません。出来事の連鎖という意味で、すべての出来事に因果関係があるのは当然ですが、自由意志によって行動できる人間が突然の災難に遭った時に、その人が災難に遭わねばならなかった原因などありえません。運悪く、偶然にと言い表せる程度です。そうであるにも関わらず、原因があるにちがいないと思い込んでいるから、神を登場させる論理に捕えられるのです。因果応報思想は人間が考えだした概念の一つに過ぎません。
納得できないことを手っ取り早く説明するために人間が創造したものが、いわゆる人間の想像力を超える神がおられるという考え方でした。
納得できない事柄を説明するために神を持ち出せばそれ以上問うことができない状態を作り出せたからです。創世記の天地創造神話にその特徴が現れているように、納得できない問いに終止符を打つために考え出された道具が神です。
【神を否定できたのは近年】
パウロが地の果てまで伝道しようと思った時の地の果てのイメージはヨーロッパあたりだったでしょう。ほとんどの人は日本の北の端(はし)から南の端まで行ったことはないでしょうが、日本が地球のどのあたりにあるかを想像することができます。世界の大きさの認識が変わってきたように、宇宙の認識も変わりました。しかしそれは驚くほど、近年のことです。ほぼ100年前の1920年にエドウィン・ハッブルがアンドロメダ星雲が他の銀河であることに気づくまで、天文学者たちでさえも天の川銀河が宇宙だと思っていたのです。ハッブルが1929年に他の多くの銀河が互いに遠ざかっていることに気づいてから、宇宙は限りなく膨張していることが判ったのです。この事実から逆計算して、この宇宙の初めにビッグバンがあったと予測されたのです。陽子が自発的に出現できるように、原因がなくても神がいなくてもビックバンは起こりえたと言えるようになったのです。
数千年あるいは数万年以上、神という概念に囚われていた人間は、近年、ようやく神という概念が成り立たないことを証明することができたのです。マクロからミクロまでの科学的な考察を積み上げることによって「まるで人間のように事柄に対応する人格的な神は存在し得ない」とはっきり言うことができるようになりました。この結果を踏まえた上で、人類はこれからの生き方を創造していくべきなのです。
【人間イエスに興味あり】
このように、全能の創造神は存在しないことをはっきり理解した上で、そうであるからこそ、人間イエスに興味が湧いてきます。なぜならば、神に従うことを求める宗教にどっぷりと浸かりきった社会にあって、イエスは神を相手にせず、人間だけを相手にしたからです。
ぼくがこのように言っても、イエスは神に祈ったし、自分が神の子だと言った場面が描かれているじゃないかとキリスト教徒は、反論なさるでしょう。しかし、イエスがキリスト(人類救済のために選ばれし者)であったと証明したい人が書いた文書に、イエスが神の子であったとか父なる神に祈ったと書かれているのは当然のことで、証拠としての価値はありません。
人として生き、死刑にされるほど悪いことをしたのでもないイエスが処刑された時に神が天からの助けの手を差し伸べることができなかった事実が、この世に介入できる神などいない事実を証明しています。
全人類の罪を一身に引き受けるために殺される必要があったのだとか、それが神様のご計画だったのだなどという説明は、イエスが殺された理由を説明するために作られた創作物語にすぎません。
【イエスとキリストは違う】
多くの人はイエス・キリストという呼び名を姓名であると勘違いしていますが「イエスこそ世を救うキリストである」というキリスト教徒の信仰を表しているのがイエス・キリストという教会が作った信仰告白の表現です。イエスは全人類のために十字架にかかって死んでくださったキリストであるという意味を込めて、キリスト教徒は「イエス=キリスト」と呼ぶのです。この両者をイコールで結びつけているのは教会教義ですから、教会が作り上げたキリストと、生前のイエスは全く別物です。キリストはキリスト教徒にしか関わり得ません。しかし、イエスならば人間としてすべての人と関わり得ます。ぼくは、イエスを「全人類のために十字架にかかって死んでくださったキリスト」だと認めていません。だから、福音書の中から人間イエスを取り出して説教しているのです。
【ぼくたちは】
物理学的に宇宙を創造した神がいないこともイエスが神の子でないことも明白です。しかしイエスと名付けられた人がいたことは事実です。
面白いのは人間イエスが残した言葉です。
イエスは2000年も前に、神への信仰に囚われた宗教国家の真っ只中で、自らの生き様を通して、実社会においては、神ではなくて人間を大切にしなきゃならないことを教えました。
古典的な神学と宗教社会によって制約されていた人々が自由に生活できるようになるためにイエスは自分の思いを福音として伝えたのです。
ユダヤ教の神への捕らわれからの解放を実現してくださったイエスの福音を受けたぼくたちは自由の身であり続けるべきです。キリスト教の神に再び捉えられたのではイエスの苦難が無意味になってしまいます。イエスの偉業に応えるために、ぼくたちは、存在し得ない神への恐れや服従心をいっさい捨てて、見えづらくても見える人を大切にし、人間関係を改善する生き方を模索することに心を用いましょう。それが明るい未来を作るために最も可能性が高く最も近道だと思うからです。