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「神話にメスを入れる」2020.11.1
「神話にメスを入れる」2020.11.1
聖書 ルカ福音書 一章一節~四節
ぼくは、批判的な言葉を使うことが多いので、この業界(キリスト境界)の嫌われ者です。批判的な言葉を聞きたくない人が多いからでしょう。そんなことはわかっているんですけれども、「違うことは違う」と言わなければ、大きな流れに呑み込まれてしまうと思うので、すぐに口に出してしまうんです。多くの人のように黙っておれません。損な性格かも知れませんが、今更変えられません。
クリスチャンは柔和(にゅうわ)であると世間から思われて、自らもそのように努力しなければならないと思っているようですが、黙ってクリスチャンスマイルしている人が柔和だとは限りません。むしろそんな人の方が怖いです。
十字軍のことを考えても判ります通り、クリスチャンが柔和である、というのは美しき誤解です。
こんなことは驚くに値しません。何しろ、クリスチャンが大事にしている聖書の中に、すでに多くの対立があるからです。
聖書は一冊のまとまりのある書物だ、なんていうのは大きな誤解です。先週紹介しました福音書もそうであったように、いろんな対立があります。最初に書かれたマルコ福音書が多くの人に読まれている事を、快く思わなかったマタイやルカは、マルコを否定する福音書を書いたという事を見ただけで、対立があることは明らかです。
【ルカは自分を売り込んだ】
ルカ福音書の最初にこんなことが書かれています。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人が既に手をつけています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのが良いと思いました。・・・」と書いております。小気味よい書き出しなので、よし読んでやろう、という気にもなります。しかし、注意して読めば、綺麗な言葉でマルコを辛辣(しんらつ・非常に手厳しい表現)に批判していることがわかります。
ルカは、いくつかの物語(福音書)がすでに書かれている事を知っていながら、否、知っているからこそ自分で福音書を書いたんです。「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて・・・」と書いている、ということは、すでに発表されているものではダメなんだ、という意味を込めて、「わたしが書いた福音書の方が、詳しいし、順序立ってまっせ」と言っているんです。これに気付いていただくだけで、一冊の聖書の中に、対立した文書があるという事実を認識していただけるはずです。
【翻訳という解釈を通して読む】
聖書本体の中に、対立があることに加えて、読者が理解しなければならないのはもちろんのことですが、聖書と読者の間に、もう一つ大きい難関が存在しております。それが翻訳です。
現在普及している聖書の原典は、旧約聖書はヘブル語で新約聖書はギリシャ語で書かれております。日本語の古典を読むのも難しくてできません。ヘブル語やギリシャ語の古典なんて、簡単には読めませんから内容を知るためには専門家の助けを借りなきゃならないわけです。
カトリック教会で公認(1545年トリエント公会議)されている聖書は、ラテン語訳の聖書(ウルガタ・共通)です。カトリックの公認翻訳本です。それにしても、専門家である司教とか司祭たちは読めても、他国の一般信者には読めません。
【庶民が聖書を読める時代になった】
熱心な信者さんなら誰しも、神の言葉である聖書を読めるものならば、自分で読んでみたいと思うでしょう。しかし、中世までは、そういう権利を専門家が独占していたんです。
宇宙論でも申しましたように、十六世紀というのは、いろいろな考えが変化して開花する時期でした。教会の専門家が教えることにも疑問を持つ人々が現れました。もちろん、専門家の中にも、伝統的な教えに疑問を抱いた人もおります。宗教改革で有名なマルティン・ルターもその一人です。彼は聖書の言語もラテン語も読める専門家でしたから、教会の教えと聖書を読み比べることができたので、率直な疑問を投げかけたんです。それだけではなくて、ドイツ人が聖書を読めるように聖書のドイツ語の翻訳もしています。
同じ頃に、英語への翻訳をした人もおります。聖書を最初に英語に翻訳した人のことを講義で知ったのはもう十三年ほど前のことです。
二〇〇七年十一月一日に北星学園大学が主催した宗教改革講演会で「ウィリアム・テンダル」と題した田川健三宗教学博士の講演を聞きました。
テンダルの頃は、英語で書かれた書物もほとんど無くて、英語の表記も定まっていなかったようですから、テンダルの優れた英語表記は、後のキングジェームズバイブルにも引き継がれていることが判るようです。ちなみに、難解な英語、ということで有名なシェークスピア(一五六四〜一六一六年)も同時代の人です。
十六世紀には印刷技術が発達しました。そのような、当時の最先端技術を使って、個人翻訳の聖書が印刷されたんです。一冊ずつ写本されたそれまでとは違って、百倍も千倍も、一気に増やすことができるようになったことが、後の展開へとつながっていくんですね。
テンダルは一五二五年にマタイ福音書全体とマルコ福音書の一部を、翌年には新約聖書全体を翻訳して、三千部印刷されたということでした。
英語圏の人には、母国語で読める聖書が、売り出された、ということです。最先端の技術によって、それまでになかった新製品が生まれたということですから、現在と同じことが起こったようです。すなわち、多数の海賊版が出回ったんだそうです。こういうことが重なったから、聖書を読める人が格段に多くなったんです。
【聖書を読む人は反逆者】
聖書をそれぞれの国語で読めるように翻訳することは、専門家・有識者・学者しか読めなかった聖書を、自国語で読めるようにした、ということです。一部の庶民が、直接に聖書を読んで、自分で感じることができるようになったんです。専門家の説明と自分の感じかたが異なっていることを肌で感じることができるようになった、ということです。このことは、既得権者を恐れさせて、それだけでカトリック・キリスト教会に対する大きな反抗(プロテスト)になったんです。そこで、偉業を成したテンダルは一五三六年に焚刑(ふんけい・火あぶりの刑)になっています。このようなことが十六世紀の宗教改革につながったんです。それまでの教会に反抗する勢力、すなわちプロテスタントが誕生した、ということです。
こういうことが基礎になっていろんな翻訳が出て来る、ということは、読み方にバラエティー(多様性)が出てきた、ということです。バラエティーというのは演芸じゃなくて多様性です。
聖書の読み方が変わったことがキリスト教神学を掻き混ぜたというか、対話する神学の基礎を作った、と言えます。
このように、聖書の翻訳が広がって、多くの人が読めるようになった、とは言いますものの、この時点では、書かれたままに言葉通りに読んでいたはずです。それほど聖書を大切にしていたわけです。
ところで、カトリック教会の教えに疑問を持った場合に、意義を申し立てようと思ったら、どこに権威を求めますか。聖書に書かれている事によって、反論するしかないでしょう。ルターが「聖書のみ」という言葉によって、聖書を第一にしたのは、そういう背景があったからです。
【聖書そのものにメスを入れる時代】
二十世紀になって、ドイツの聖書学者ルドルフ・ブルトマン(一八八四〜1一九七六年)がキリスト教神学に大きな影響を与えました。この人の名前ぐらいは覚えておきましょう。
ブルトマンが一九四一年に発表した「新約聖書と神話論」という論文から、新しい神学の流れが鮮明になったんじゃないでしょうか。そして、「非神話化」という言葉も一緒に覚えておいてください。この言葉の意味を、ごく簡単に説明しますと、新約聖書に書かれている神話を、そのまま読むのではなくて、非神話化をしなくては本当の内容がわからない、ということです。
簡単に言いすぎて、専門家には聞き逃せないでしょうけれども、詳しく説明することもできませんし、そもそも、専門家の間でも、意見が別れている説明を聞かされても理解できないでしょう。ですから、この程度の簡単な理解でとどめていいでしょう。誰でもわかることが必要なんです。
【ぼくたちは】
ぼくは常々、聖書にはたくさんの神話が書かれていると言ってきたので、ここにおられる方々はすでに理解してくださっているように、全体の構図を大まかに掴むことができれば、それだけで、聖書の読み方が、まったく変わるはずです。
今は、こんなことを平気で言っておるぼく自身も、十六歳でクリスチャンになった頃はぜんぜん違っていました。今のような説教を平気でできるようになるまでには、五十年以上かかっているんです。この教会には、十年間かかった方もおられます。そして、ぼくに、このような説教をさせてくださる教会は、ここだけです。こんな教会は他にないと思います。
ブルトマンに代表されるような新しい読み方が登場してから、まだまだ八十年くらいしか経っていません。たかが八十年です。されど八十年です。これほどの時が経っても、いまだにほとんどの教会が、神話をそのまま説教していると感じます。
イエスを神話の中の登場人物にしてしまったのでは、イエスが伝えた本当の善い情報(福音)が神話になってしまいます。神話では現実の人を救えません。地上に生きた人間イエスが必要です。
過去の偉人たちの偉業を受け継いで、もうそろそろ、神話にメスを入れ、非神話化を実現しなければならない、と思います。神話の呪縛から解き放たれて、人間イエスと生き直してみましょう。