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「マリアの実情をそのまま受け取ろう」20191103

「マリアの実情をそのまま受け取ろう」2019年11月03日

「マリアの実情をそのまま受け取ろう」2019年11月03日

 

聖書 マタイ 一章 一節〜二十五節

 

 日本中に天災人災が続いているように「なんでこうなるの」「どうしたらいいの」とぼくたちを悩ませることが、日々の生活に次々と起こってきます。これが、ぼくたちの生きている現実世界です。

 多くの人は苦労するために生まれてきたように思えます。そんなふうに決まっているんでしょうね。地球上のどんな生物を見ても、努力しなければ生き続けられないようですから、苦労することは、生物が負っている使命だとしか考えられません。ナマケモノと名付けられた動物も、きっと苦労していると思います。

 世の中には、楽しそうにしか見えない人もいます。けれども、それは周りで見ている人の感想でしかありません。本人の実情はそれほど単純なものではないはずです。そのように、簡単には知り得ない、実際の人間の機微(きび・外からは知りにくい心の微妙な動き)が赤裸々に描かれている書物があります。それがぼくたちが読んでいる聖書です。

 

【聖書は興味深く読める書物】

 聖書を読みもしないで、面白くない書物だと考えている人が多いようです。実際に読んだけれど面白くなかったと感じた人もいるでしょう。面白い読み方をしなかったからです。

 小説が面白い以上に、人間の生活の実際の営(いとな)みを、赤裸々に書いている聖書は興味深い書物です。ただし、民族志向が強いですし、古い文書で、書き方も特殊ですから、現代小説を読むようには簡単にはいかないというのも事実です。しかし、登場人物の機微を探れば、とても面白いと言えます。

 放送禁止用語も含まれています。目を背けたくなるような内容も、たくさん含まれています。しかし、なんと言っても重要なことは、その多くが小説のようなフィクションじゃなくて、事実(ノンフィクション)である、ということです。

 

【ハロウィーンの次はクリスマス】

 先日十一月一日の朝に、テレビを点けますと、クリスマスケーキの予約のコマーシャルが流れてきました。十月三十一日のハロウィーンが終わるやいなやですから、びっくりしました。祭りだったら何でもいいから遊んじゃうし、商売に繋げようとするなんて、日本は、なんと節操(せっそう・信念を固く守ること)のない国になったんだろうと嘆かわしく感じました。

 ちなみに、ハロウィーンというのは、悪霊を追い払い、秋の収穫を祝う、古代ケルト人の祭りが起源らしいです。

 よく判りませんが、知らなきゃ言わない方がいいんですけれども、大阪人だから言ってしまいます。よく判りませんが、古代ケルトでは十一月一日に新年が始まるんだそうです。なぜか、その前日には死人の霊や悪霊が出てくるんだそうで、彼らの目をごまかして、彼らの仲間だと思わせるために仮装するんだそうです。どこまで本当か判りません。

 もしそうだとすれば、お盆と正月が一緒に来たようなもんですから、大盛り上がりするのも、判るような気がします。けれども、古代ケルトの宗教と何の関係もない日本人が他民族の風習を、意味も判らずに取り入れることは理解できません。

 祭りは楽しい、楽しいのはいいことだ、というようなことだけで躊躇(ちゅうちょ)なく輸入して、しかも、金儲けの道具に使っていることに、不安を感じます。安ければ何処の国の物でも買ってきて売り飛ばす商売人のような腑抜けから育てられた若者たちの精神が、さらに侵食されて行くようで、違和感を覚えるのは、ぼくだけじゃないでしょう。わけのわからないものを見境なく取り込んでいる場合じゃないとぼくは思いますがねえ。

 数年前のハロウィーンは特に、普段の鬱憤(うっぷん)を晴らせない若者が、騒ぐために祭りを利用しているだけのように見えました。仮装して騒ぐことが、特に気に入りません。悪ふざけが過ぎて、身を守るどころか、若者たちが本当の悪者になってしまったように見えました。

 確かに、どんな祭りにも、民衆の普段の鬱憤を晴らす、という要素があることは否めません。

 日本の祭りでも、祭り専用の法被(半被、はっぴ)を来たり、厄除け(やくよけ)の化粧をします。これも、仮装と言えば仮装かもしれません。とにかく、人間は、特別な飾りつけや仮装そして、祭りのような特別な日を作ることが好きなようです。

 日本人は何でも受け入れて、自分のものにするのが得意ですから、様々な祭りを生活の中に取り入れてきました。無意識に参加している間に、異民族の宗教的風習にじわじわ影響されているだろう、と思えます。意味も判らないまま真似るのは危険です。

 

【クリスマスはごちゃ混ぜの祭り】

 さて、現代の日本では、十二月二十五日にはクリスマスと呼ばれる祭りが当たり前のように、祝われております。パーティーやディナーショウやホームパーティーが行われ、プレゼントも飛び交います。

 クリスマスが、このような形で日本に受け入れられるようになったのは、戦後です。もちろん、戦前にもクリスマス(降誕祭)を祝うクリスチャンはおりました。けれども、宗教に関係なくクリスマスという風習が定着したのは、戦後です。

 アメリカに憧(あこが)れていた日本人が、アメリカ映画などに影響されて、クリスマスの風習に染まったんでしょう。いまだに、アメリカの映画やドラマには必ずクリスマスを取り上げた物語があります。それは、みんながメルヘン(おとぎ話)を好きだからでしょう。そして今もおとぎ話の幻想に多くの人を誘い込んでいるように思います。

 確かに、メルヘンには、心が温かくなるような話が多いので、惹(ひ)かれる人が多いことは否めません。しかし、そんなことに目が眩(くら)んでいる間に、作り話(フィクション)に頭が染められて行く、という危険があることを知っておかなければなりません。なぜならば、綺麗なものや可愛いものしか受け入れなくて、汚いものは見たくない、という脳みそにされてしまえば、事実や真実という本当のことが見えなくなってしまうからです。

 見たいことも見たくないことも、綺麗なことも汚いこともあるのが現実の世界です。そのうちの一部しか見えなくなれば、真実が見えません。それは騙されやすい、ということです。世の中には、悪い人がいます。悪い人は、騙されやすい人を、自分に都合のいいように騙すもんです。

 自立して生きるためには、他人に騙されないことが必要です。他人に利用されない生き方をするには物事の事実(真実)を見る目と、見分ける脳みそが必要です。そのようなことを訓練するために、綺麗事ばかりじゃなくて、醜いことも書き込まれている聖書を読むことは有益です。

 もしも今までに、聖書の中に綺麗事しか見えていなければ、聖書の一面しか見ていないことになります。綺麗事の説教を聴かされてきたか、嫌な面を隠されてきたからだと思います。

 いいも悪いもなく、あるがままを読んでいれば、聖書は、決して退屈な書物じゃなくて、自分の生き方に強い影響を及ぼすほど、興味深い書物であるはずです。そんな意味を込めて、今日もぼくたちは聖書を読んでいきましょう。

 

【イエスの誕生について】

 イエスの誕生祭(クリスマス)が近いことでもありますので、イエスの誕生に纏(まつ)わるところを読んでもらいました。ぼくが好きなマルコ福音書を読まなかったのは、マルコに誕生物語がないからです。イエスの言動そのものを伝えたかったマルコはイエスの誕生物語に興味がありません。

 なぜイエスが生まれたか、とかイエスの存在の意義をマルコは人々に説こうとしません。強い刺激を受けたイエスの生の出来事を伝えずにはおれなかったんでしょう。そんな特徴からも、マルコ福音書が生前のイエスに近い時代に書かれたことが伺えます。これに対して、マタイやルカ福音書は、イエスの特殊性を印象付けようとしています。すなわち、誕生の経緯からして尋常じゃなかった、ということをアピールしています。少なくとも、イエスは神の計画の下で、神から送られたメシア(救い主。キリスト)としてお生れになった、ということを前提にしています。このように、イエスを神格化していることから、教会組織が発展し、教会教義が明確になってからマタイとルカ福音書は書かれたものだと判ります。

 特に今日読んでいただいたマタイ福音書は、いわゆる旧約聖書によって予言されていたメシアとしてイエスがこの世に誕生なさったのだと主張しましす。イエスがアブラハムから始まる系図に繋がっている、と主張するために、系図から書き始めたと思います。

 しかし、神の計画の中でイエスがお生れになったことを強調したい男系の系図の中に、面白いことに、タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻(バトシェバ)という四人の女をマタイは登場させています。これは、偶然じゃありません。なぜなら、この四人は、かなり複雑な、悍ましい(おぞましい・身震いするほど嫌な感じ)ほどの物語を背負っているからです。このような女たちを登場させたからには、それなりに強い考えがあったに違いありません。

 

【四人の女たちは前座】

 四人の女たちは、悍(おぞ)ましいほど複雑な関係を背負った女たちであることは確かです。民族の倫理においても宗教の律法においても、許されそうにない存在に思えます。

 そんな女たちが、神による救済の歴史の中に確かにいたことを、マタイは、旧約聖書を通して証明しました。女たちの現実は、律法を乗り越えていると言えるでしょう。これはマタイの大きな功績です。しかし、この女たちも、マリアを際立たせるための脇役です。なぜならば、マリアは四人の女性以上に複雑な状況の中で子を宿したからです。

 それほどの状況であったからこそ、マリアは、人に依らず、神のご計画によって子を宿したんだ、とマタイはしたかったんでしょう。

 ただし、言葉に出せないマリアの状況を説明するために、マリアは聖霊によって妊娠した、と言ってしまいました。このことは、後の世に大きな禍根(かこん・わざわいの原因)を残しました。

 誰が父であるかわからない状況をマタイ自身が受け入れられなかったのかもしれません。また、他の人を納得させることはできないと思ったのかもわかりません。いずれにしても、説明できない事実を説明するために、神や聖霊の直接介入を持ち出しました。これは現実逃避です。せっかく掘り起こした四人の女たちの現実をも吹き飛ばしてしまいます。

 

【ぼくたちは】

 マリアが妊娠した経緯はわかりませんが、言うに言えない現実の人間の事情があったはずです。悲惨な状態になったマリアの実情は、人によるものに違いありません。そこに聖霊を介入させちゃいけません。マリアの実情を、そのまま受け止めることによって、マリアも他の四人の女たちと同様に解放されるんです。それしか方法はありません。綺麗な言葉に騙されないで、事実を大切に見ましょう。事実の中にこそ、本当の解放があるからです。マリアの実情を受け止める者になりましょう。

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