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「病は信仰と関係ない」20190922
「病は信仰と関係ない」2019 年9月22日
聖書 マルコ 二章一節~十二節
病気になって治らなかったり、嫌なことや災いに襲われたら、信仰が弱いからだとか、信仰が無いからだと、多くの人は考えます。
健康で冷静に考えられる時には、誰もそんなふうに考えません。関係ないと判っているはずなのに、不運に見舞われると、災害と信仰を、なぜ繋(つな)いでしまうんでしょうか。答えを言ってしまえば、そのように教えられて来たからです。
【病と罪は関係ない】
今日の物語に入りましょう。イエスの前に連れてこられた中風の男が、結果的に癒されました。この物語から、イエスに認めてもらえるほどの信仰を持つことが大切だ、という解釈を聞かされてきました。しかし、よく読んでみると、この物語に、そんなことは書いてありません。
イエスは、病人を運んできた「人々の信仰」を見て、運ばれてきた男に「罪は赦される」と言っただけです。病気である本人の信仰はまったく取り上げられていないことに注目してください。
宗教指導者たちとイエスのやりとりの末に、結果的に、病人は癒されたことになっております。しかし、その際にも、病人本人の信仰は何も取りざたされておりません。罪が赦されることや、病気が癒されるためには、それ相応の「信仰」が必要である、と教えられてきたんですが、そんなことはここに、いっさい書かれておりません。今までの考え方は、思い込みに過ぎなかったんです。
多くの宗教指導者は、病気を治して欲しければ、強い信仰を持ちなさい、などと教えます。けれども、少なくとも、今日読んでもらったマルコ福音書の物語からはそんな解釈を引き出せません。
【人々は恐れた】
マタイ福音書は、寝たきりであった中風の男が、起き上がって家に帰っていったのを見た群衆は、恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した(マタイ九章八章)と書いています。ルカ福音書は、人々は皆大変驚いて神を賛美し始めた。そして怖(おそ)れに打たれて「今日は、驚くことを見た」と言った(ルカ五章二十六節)。と書いています。
驚き怖れて、神を賛美した、というんですから、神への恐れと神への賛美は深く結びついていることがわかります。怖い王様を褒め称えるように、人は、神を恐れているから、神を賛美するんです。
病気が罪の結果である、と教えられ、そう信じていた人は多いんです。生真面目で信心深い人ほど、このような考えに陥りやすいんです。神を畏れる人々は、自分が災いに遭わないように、病人や罪人に関わらないようにしたんでしょう。
しかし、今日の物語のイエスは、重病人に正面切って「君の罪は赦される」と宣言しました。当時、こんなことを言う人は誰もいません。
人が病気になるのは、罪の結果だ、と宗教指導者たちは教えていました。もしそうならば、病人の罪を赦すことは、神の審判を打ち消すことになります。宗教指導者たちが、神への冒涜だと言って目くじらを立てたのも無理ありません。
罪と病には関係がある、という前提に立っている宗教指導者にとって、神の裁きに遭っている病人は罪人です。そうだとすれば、罪を赦されていない者の病を治すことは、神の審判に逆らうことです。
もし医者が、罪の結果としての病を背負っている罪人=病人の、病(やまい)だけを切り分けて、病だけを治そうとすれば、神に逆らった、と宗教指導者に受け取られるでしょう。宗教にとって、病人は病人のままにしておくことが、神に逆らわないことだったはずです。むやみに病人を癒す医者は、許されません。せめて、宗教指導者と手を組んで、罪と病とに同時に取り組まなければ宗教指導者の恨みを買います。
【ルカは意図を持って書き加えた】
ところで、イエスは重病人に赦しを宣言しました、さらに加えて、立って戸板を担いで帰れ、と命じて病人を追い返してしまいました。
キリスト教の立場からは、イエスは偉大な神の子だから、男の罪を赦し、病気を治すことができたんだ、と説明されます。なぜこんな説明をするようになったんでしょう。
キリスト教の説明を裏付けるために、ルカはこの物語を自分の福音書に載せる時に、一言つけ加えております。「主の力が働いて、イエスは病気を癒しておられた(新共同訳)」・「主の力が彼(イエス)に癒しを行わせていた(岩波訳)」(ルカ五章十七節)とありますように、この物語の最初の方で、神の力で病気を治す権能をイエスは与えられていたんだ、とルカは自らの解釈と主張を、読者に刷り込んだんです。ルカ福音書でこの物語を読んだ人は、この物語は癒しの物語だと思い込んでしまうに違いありません。
最初から誘導され、イエスが神の力によって病人を治した物語だ、と認識させられた人は、それしか考えられなくなります。
病気を癒すほどの権能をイエスが神から与えられているということと、そのイエスによって、中風の男が癒されたことを結合させて、前面に押し出し、「イエスが中風の男をお癒しになった」ことをこの物語全体の主題にしています。日本語訳聖書の小見出しにも、その影響は顕著に現れております。
初めにこの解釈が刷り込まれてしまいますと、のちに、他の福音書を読んでも、癒しの物語だとしか考えられません。他の解釈の選択肢を見えなくさせていることに、注意が必要です。
【印象操作されていないマルコ】
そこで、別の見方を示しましょう。最初に書かれたマルコ福音書では、病人を連れて来た人々の信仰を見たイエスが「子よ、君の罪は赦される」と言った(マルコ二章五節)だけです。イエスの言葉を、聞いた宗教指導者たちが、怒り出していることから判る通り、まず、この言葉にこそ重点が置かれているはずです。
ユダヤ教の指導者たちは、人を罪を定めたのは神だから、罪を赦すことができるのも神のみである、と考えています。彼らには、イエスの言葉は聞き捨てならない言葉です。神が病気を負わせたほどの罪人に、赦しを宣言するのは、神の審判を否定することだと彼らには写ったでしょう。
怒りを抑えきれない宗教指導者たちを尻目に、イエスはまるで火に油をそそぐかのように、男を癒してしまいます。神の審判に対して、イエスは完全に逆らっていると受け止められたでしょう。
しかし、最も素朴な形でこの物語を記録したマルコ福音書を、冷静に読めば判るように、「赦しの宣言」と「病気の癒し」は別々に起こったんです。
「君の罪は赦される」と語ったイエスの宣言だけでは、見える奇跡は起こっていません。
「起きて床(とこ)を担いで家に帰れ」という命令無しには、奇跡が起こらなかったことがわかります。すなわち、マルコは、罪を赦す、ということと、病気を癒す、という出来事を独立した二つの内容としてこの物語に書いたんだとぼくには思えます。
イエスは、「君の罪は赦される」とだけ語りました。宗教指導者が罪人だと認定して疑わなかった中風の男の罪が赦されるのだと宣言します。どんな罪が誰から赦されるのかを言わないで、ただ赦される、と宣言しただけです。しかも、その際、本人の信仰は全く取りざたされていないことに注目してください。罪と病気には因果関係がある、と多くの人が思っているにも関わらず。イエスは、罪と病には因果関係がないと宣言した、ということです。多くの人が思い込んでいた因果関係をイエスは全く否定しただけです。これがイエスの福音です。
その後で、戸板に乗せられてきたはずの中風の男に、立って戸板を担いで帰れ、とイエスは言っただけです。イエスの命令に従わなければならない、と言う人が多いですけれども、そんなことが大切だと、この物語は言っておりません。これはこれだけの話です。すなわち、中風の男が癒されたことは、この物語全体の主題じゃありません。
病人が癒されたというエピソードは、イエスが伝えたかった福音とは関係ない、とぼくには思えました。
と言うのも、ぼくたちに実際に起こりえないことであれば、単なる昔話と同じですから、ぼくらの現実と、関係ないからです。超常現象のような癒しを大々的に宣伝することは、カルト集団にまかせておけばいいことです。
たとえ、男が戸板を担いで歩いて帰ったとしても、本人の信仰との関わりは、まったくありません。癒しを得るためには相応の信仰が必要なのだと教える人はいます。しかし、この物語を読む限り、罪人の赦しや病人の癒しは信仰とまったく関係ありません。
【現代人でも囚われやすい】
病と罪に因果関係はありません。現代人はそれをよく理解しているはずです。しかし、ひとたび自分が病気になると、罪の結果ではないだろうか、という疑問が頭を擡(もた)げます。心の底では、まだまだ迷信に囚われている証拠です。迷信を小さい時に刷り込まれた人間は迷信からなかなか抜けだせず、抜けてもすぐに取り込まれてしまいやすいんです。でも、迷信に囚われていて良いことは何もありません。だから迷信を捨てましょう。
【ぼくたちは】
病気や災いと罪を結びつけて、災いから救い出されるためには、強い信仰が必要だ、と宗教は教えます。
しかし、宗教の嘘(うそ)と迷信の柵(しがらみ)から、ぼくたちを解放するために、イエスは福音の言葉で、病と罪の関係を切り離しました。
病と罪は関係がないことを示したイエスの言葉を信じ(受け入れ)ましょう。
病は純粋に身体と心の不調です。少なくとも心が迷信の柵(しがらみ)から解放されて、気持ちが楽になれば、身体にも良い影響が出るでしょう。あとは純粋に、自分の身体に配慮すれば良いだけだと思います。