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「神が悪い」20210801
「神が悪い」20210801
説教者 岩本義博
聖書 創世記 四章 一節〜十二節
聖書の最初に置かれている創世記の特に最初の方に置かれている物語は、神話の要素が特に強い創作物語(フィクション)です。
人の生活に実際に起こる出来事が神話に反映していますけれども、実際に起こった出来事そのものが描かれているのではないということを肝に銘じて、童話のように読んでください。
さて先週は、最初の人アダムとその妻エバの出来事を見ました。今日は彼らの息子たち二人の事件です。もちろん神話の神も登場しますから、この三者の関係のすれ違いが殺人事件へと発展した物語の真相を探ってみたいと思います。
【弟殺害の動機】
事件の実態は、兄カインが弟アベルを殺したというものです。殺しの動機は、兄が弟アベルを妬(ねた)んだからだということで間違いないでしょう。しかし、冷静に考えれば、兄が弟を殺すほど妬む必要はありません。ですから、兄の心情は、常識では理解できないほど狂っていたんでしょう。兄をそれほど狂わせた原因は何か、気にかかります。
ちょうど七年前の八月三日に、「あなたを評価する神などいない」と題してこの神話から説教しました。読み返してみると、今回考えたことは概(おおむ)ね語られておりました。しかし、ぼくの考え方の根本が、昔とは激変しましたので、昔と同じ説教をすることはできません。変化した部分を強調してお伝えするつもりです。
【事件の発端(ほったん)】
事件の動機を結論的に言えば、自己評価の低い兄が弟を妬(ねた)んだことです。比較や評価が、人間関係を壊し、殺人にさえ至るほど怖いものであるという事実を知っておきましょう。
聖書物語の冒頭に、人の比較と評価が起こす事件を取り上げているのは、このような比較と評価が、現実の社会で最も重要視されているからです。
さて、兄と弟がそれぞれ神への供え物をしたことからこの事件は始まります。この物語が書かれた頃には、すでに神に捧げ物をする風習があったからでしょう。
兄弟は、それぞれの仕事で得た物を供えました。ところが、神話の神は弟アベルの供え物だけに目を留めて、兄カインの供え物を無視したと描かれております。なぜ、神話の神は、そのような行動を採ったのか、理由が書かれておりません。読者は不思議に感じるはずです。
新約聖書のヘブル書の著者は、「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです」(ヘブライ人への手紙十一章四節)と解釈しています。カインの捧げ物が顧みられなかった責任はカインにあるのだと言わんばかりです。これが教会の伝統的な解釈になりました。なぜなら、新約聖書に示されているからです。
確かに、神に喜ばれる供え物をしなければならないという説教を作って、神への恐れを植え付けるためには好都合な解釈です。けれども、元の神話には、供え物の優劣は描かれておりませんから、ヘブル書の著者の思い込みでしょう。
むしろぼくは、神には好き嫌いがあって、神話の神は、依怙贔屓(えこひいき)する神であることが素直に描かれているのだと思います。ここがぼくの考えが激変した部分です。
【評価を拒否する】
ぼくたちは、生まれた時から、評価に晒(さら)されています。分別、評価、差別されることに慣れてきたので、評価されることを当然のように受け取ってしまっており、その考え方から自由になろうとさえ思わないようです。七月二十三日から始まったオリンピックも評価する精神の化身のように思えます。
馴(な)れているから、評価されても何とも思わないのならば、別にかまいませんけれども、評価が原因でたくさんの事件が起こっているのも事実です。ですから、他人から評価されることを認めてはいけない、評価は拒否すべきものだとぼくは考えております。
【自己評価も拒否する】
近頃は社員に自己評価させる企業が多くなりました。しかし、これも余計なお世話です。他者と比べさせるんですから、他者から評価されるよりも大きい負担を心にかけると思います。自分が劣っていると自らに思わせるなんて、差別を植え込む卑怯な手口で、社会悪です。自己評価を他人にせまられる必要なんかありません。
神による差別か偏見か依怙贔屓(えこひいき)によって、兄が弟に嫉妬(しっと)するのは判ります。しかしこんなことぐらいで、弟を殺したというのはカインの行き過ぎだと誰もが思います。
兄カインは、常日頃からアベルに負けていたのかもしれません。神による評価に慣れてしまい、アベルに勝つことができないと思い込んでしまっていたのかもしれません。いわゆる負け犬になっていたカインが、切羽詰まって殺人事件を起こしたんでしょう。カインが負け犬の烙印を自分で認めてしまったのがいけないと思います。しかし、そんなふうにカインを育ててしまった神にも責任はあるとぼくには思えます。
【神話の神が悪い】
神が好き嫌いで兄弟を差別したとか神が悪いだなんて今まで考える余地もありませんでした。しかし、そう考えれば辻褄が合うことが判りました。
神学では絶対者である神を悪者にすることなどできません。ですから、カインを悪者にしてきました。しかしヘブル書の考え方を採用すれば、判断基準も判らないままで、供え物に優劣を付けなければならなくなります。疑問が増えるばかりになるんです。神が悪いと考えることができれば、話は簡単に辻褄を合わせることができるようになります。そう思いついたんです。
神といいましても、どうせ神話の神なんですから悪者にしてもいいじゃありませんか。
好き嫌いでアベルの捧げ物だけを心に留めた依怙贔屓(えこひいき)の神の態度を悪いと言ってもいいと思います。
【神話の神の原型は王】
現実社会の中で、そんな神をぼくは認めません。神話の神は悪者です。そんな神に目を注いでもらわなくてもいいんです。
神話の著者は、神話の神を批判すべき存在として描き出すことで、気まぐれな王を批判しているのかもしれません。
神話形式の物語で神の理不尽な振る舞いを強調することによって、絶対者として振る舞っている王の理不尽さを非難しているのかもしれません。
神話もこのように用いれば、現実の社会で神のように振る舞っている王を批判できるからでしょう。ソロモン王がこの神話を読んで、自分の理不尽さに気づくことはないでしょうけれども、たとえ絶対権力者を名のる者から評価されても、従わなくていいと各自が気づくことはできるはずです。
【神の呪いを拒否する】
神話の神は自分のしたことを棚に上げてカインを責め、まるで呪いのような言葉をカインに投げかけます。けれどもカインは神の言葉の通りにならなくていいんです。神の呪いの言葉の通りに生きなくていいんです。そもそも人間を呪う神などいるわけありません。そんな身勝手で邪悪(じゃあく)な神がいるのは神話の中だけで十分です。他者からの評価によって生き方を押し付けられる理由なんかないんです。押し付けられた生き方から逃れればいいんです。
自分を他人と比べるのは、人であって、神ではありません。人間を評価して採点するような神は神話のなかにいるだけです。人を評価するのは、ヘブル書の著者のような人です。そんな人の評価に負けたらあかんのです。反発する必要もありません。取り合わなければいいだけです。