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「アナザーストーリー第一話」20221204
「アナザーストーリー第一話」20221204
聖書 マタイ福音書 一章十八節〜二十五節
十二月二十五日まであと三週間になりました。経済社会全体がクリスマス商戦という祭りに流されています。社会のこんな流れにぼくが反発してもだれも気に留めもしないでしょう。
クリスマスの本家であるキリスト教会もこんな世の中の先頭に立ってこの機会に、教会の雰囲気を一気に盛り上げようとしておりますので、ぼくの説教なんかどこ吹く風、てなもんです。
けれども、ぼくは負けません。祭りなんかに誤魔化されないで、この雑踏の中でも、人が生活していく上で知っておくべき福音、すなわちイエスが伝えた情報をしっかり伝えていきますので、よろしくお付き合いねがいます。
イエスの福音の視点からイエス誕生の意義を捉え直そうとしても、キリスト教の誕生からほぼ千六百年も祝われてきたイエスの誕生祭の話をするに際しては「クリスマス」という言葉を使わざるを得ないのですから、歯痒いのでありますが、とにかく「クリスマス」の原点になった出来事を考えてみることにいたしましょう。
【宿命】
近頃は経済的に生活がしづらいということで、出生数が少なくなった、とは言いますけれども、このような社会情勢の中でも子どもは生まれております。
子どもは社会情勢を背負って生まれてくるものです。父母がどんな人であるか、ということだけではなくて、父母が置かれていきた社会状況をも生まれた時から背負っているのです。どの国のどの時代にどの地方で生まれてくるかによって、その子の宿命は強く規定されているものです。そのように持って生まれた宿命は本人の努力によっても変えることができないものです。
喜んでくれる人々に囲まれて生まれてくる子もいますし、喜んでくれない人々の中に生まれてくる子もいます。状況はさまざまですが、いずれにせよ、いのちが与えられてこの世に生まれた子は、すべて、おのおのが背負っている状況の中でだけ、与えられたいのちです。
「こんなところに生まれなければよかった」ということが実現すると、その子は他のどこにも生まれません。与えられたいのちはその子一人に限定されたもので、他にはあり得ないのです。代えることができない状況を背負って生まれたいのち、これがひとりひとりの宿命なのです。
【運命】
戦火の下で生まれる子もいます。その宿命を外すことはできません。しかし生まれた子を戦場から逃れさせることはできます。その子が成長して多くの人を助ける仕事に就くかもしれません。あるいは宿命を恨んで、兵士になって戦場に戻るかもしれません。どこに行くか、何をするか、だれに会うか、あるていどは自分の意志で自分の行き先を変えていくことができます。宿命を背負った自分をどのような方向へ運んでいこうとするのかということをある程度は自分で決めることができます。そのように自分の意志を反映させることができるのが運命です。
【マリアの事件】
「イエス・キリストってラッキーな人やなあ」・「なんで」・「そやかて、クリスマスに生まれたんやでえ」という訳のわからん噺もありますが、イエスはかなり複雑な宿命を背負って生まれた方です。そのあたりから考えていきましょう。
イエスの母は、マリアです。マリアはユダヤの国民です。当時のユダヤはローマ帝国の属州でした。属州だったということは、独立した国ではなかったということですから、自由がかなり制限されていたのです。とはいうものの宗教の自由は認められていたので、ユダヤの民衆は、政治的にはローマ法の下に置かれ、宗教的にはユダヤ教の律法主義の下に置かれていたのです。
そのようなローマ帝国の属州ユダヤで、マリアは事件に巻き込まれました。
マリアにはヨセフという名の婚約者がいました。しかし、結婚前に妊娠したのです。しかも、その子の父親はヨセフではなかったのです。この事実が知られなければ問題なく過ぎたかもしれません。しかしマリアが妊娠した事実にヨハネも気づいてしまいました。これによって、事件が成立したのです。
【ヨセフの事件】
理由はどうであれ、婚約者が自分の知らないところで妊娠したということですから、これはヨセフにとっても事件です。
イエスは未婚の女マリアを母として、そのような宿命を背負って生まれることになったのです。いやいや、そう単純に言えることではありません。なぜなら、マリアはユダヤ教の支配下で生活していたからです。
現在の日本では、未婚の女性が子を産むことは珍しくありません。しかし、そのようなことを許さない国や宗教は現在でも実在します。他人に顔を晒すことさえ許さない地域があるように、イエスが生まれた当時のユダヤの律法に照らせば、マリアは死刑にされる罪人です。
マリアもヨセフもそんな社会状況を充分に知っていたのです。ヨセフには直接の責任はありませんから、罪に定められることはなかったでしょう。ですから、この社会に起こったこの事件の最も手っ取り早い解決法はマリアを死刑にすることです。それで事件はおしまいです。
【律法に負けないヨセフの正しさ】
ところがヨセフはマリアが妊娠しているという事実を公にしませんでした。こっそり婚約解消してマリアに何処かに行ってもらおうと思ったのでしょう。「ヨセフは正しい人であったから」と書かれています。こんなことが正しい人のすることでしょうか。証拠隠滅罪(しょうこいんめつざい)ですから、ヨセフも律法違反の罪人として裁かれることになるはずです。律法に照らし合わせれば、二人共罪人ですが、彼らは律法を無視したんです。人間の生き様を無視するような律法の下に縛られて罰を受けるつもりはなかったのです。二人はこんなふうに人間を差別し罰を与える律法主義社会から逃げ出したんです。
熱り(ほとぼり)が覚めて、事実が曖昧(あいまい)になって、戻ってきたかもしれませんが、とにかく、逃げたんです。律法の下で自分たちが裁きを受けることをそのまま受け入れたりしなかったんです。律法主義社会を拒否したんです。律法主義の正しさよりも自分たちの生活を大切にしたんです。この二人の下でイエスは育てられました。これが生まれ持った宿命です。
【ぼくたちは】
このように、イエスの誕生は、喜びの出来事ではなくて二人の苦渋の決断でした。律法を物ともしない生き方がイエスを誕生させたのです。このような二人に育てられたからこそ、律法に縛られない人の生き方にイエスも目覚めることができたのでしょう。複雑な宿命を背負ったイエスが、自分が気づいた福音を人々に伝える運命を選んだのはイエスの意志です。そんな運命を選んだイエスによって、ぼくたちは今の悟りを与えられています。宿命はどんなものであったにせよ、ぼくたちもイエスのように人々を囚われの身から自由にする福音を伝えていく運命をえらびたいものです。