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「どうでもいいこと多すぎる」20210207
「どうでもいいこと多すぎる」20210207
聖書 マタイ福音書 六章一節~六節
先週の説教について、木曜日の聖書楽講座では、「やっぱり敵を愛せない」という意見が強かったです。あなたがそう思ってしまうことも理解できます。でも実際には、敵対する相手を、取り込み、受け入れて生活しているもんです。だから「敵を愛しなさい」と言ったイエスの言葉も、馬鹿げた絵空事じゃない、とぼくは言いたかっただけです。
【パウロの体験】
キリスト教を広めたことで、歴史教科書にも名前が出てくるほど有名なパウロは、そもそも律法に厳格に従う熱心なファリサイ派のユダヤ教徒でした。そのような立場であったが故に、律法に文字通りに従わないキリスト教徒を迫害する役目を、自分から買って出たほどの人です。
この事実を、先週の話と関連させれば、パウロはキリスト教徒を「敵」に見立てていた、と言えます。律法主義に従わない者は、伝統的なユダヤ教の敵であり、引いては、パウロ自身の敵である、と認識していたはずです。だからこそ、弱者であったキリスト教徒に激しい弾圧を加えることができたんでしょう。
イエスが十字架で処刑された後に、イエスをキリスト(メシア、救い主)として崇(あが)める集団(後のエルサレム教会)ができたようです。伝統的な律法に従わないキリスト教徒の主張が目立つようになったので、迫害されるようになったんでしょう。その頃、紀元四十年代の終盤頃に、迫害者として登場したのがパウロです。
エルサレムを離れて、地方に逃げ出したキリスト信者たちを追ってまでパウロは迫害の手を伸ばして行ったようです。
そんなパウロがダマスコという街に向かう途中で復活のイエスの声を聞いた、とルカが使徒言行録に記録しています。(使徒言行録九章一節〜十九節)今日はこのことについて詳しく触れることはしません。ただ、パウロがキリスト教徒を敵対視していたことは理解していただけるでしょう。ユダヤ教の律法主義者パウロが、キリスト教徒を敵のように扱い、弾圧を加えていた、ということは確かです。
そして、血気盛んに、キリスト教徒を迫害していたまさにその真っ只中で、使徒言行録によれば、パウロは復活のイエスの声を聞いた、ということです。使徒言行録によれば、と微妙な言い方をしましたのは、これが、パウロ自身の報告ではないからです。
パウロは、新約聖書の中に最も多くの書物を残している人です。そのパウロが、本当にこのような劇的で奇跡的な出来事に遭遇していたならば、パウロ自身の手で、この事件を告白したでしょう。しかし、そうではありません。だから、この劇的な物語は、ルカが書いたフィクション(創作物語)だと、ぼくは考えております。
パウロは、自分の使徒としての立場を擁護するために書いた文章の中ですら、劇的な体験を持ち出しておりません。ガラテヤ人への手紙の中で、「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示(けいじ)によって知らされた」(ガラテヤ一章十二節)と言っているだけです。
また「物分かりの悪いガラテヤ人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ三章一節)と言っていますが、ガラテヤの人々が、十字架の下に立って磔(はりつけ)になったイエスを見ていた人たちではありませんから、パウロ自身の心の中の体験が吹き出しているのだと思います。
いずれも、眼で見る劇的な体験ではなかったことを示しています。
【敵対していた相手から働きかけられた】
このように、パウロは、自らすすんでキリスト教徒の敵になっていた時に、敵だと思っていた相手から、関わって来られたことに重大な意味を感じています。
律法を守るために生きてきたパウロですから、キリスト教徒を迫害することが、自分が信仰してきた神に対する敵対行為になると考える余地などなかったはずです。しかし迫害行為をしていた真っ只中で、キリスト教徒の敵になることは、すなわち、教会とイエスとイエス・キリストの父なる神の敵になることである、とパウロは気づいたんです。
このようにして、律法の教えを守れば義とされると思っていたパウロは、厳格に律法に従うことと、義とされることには全く関係がない、ということを自分の体験によって知ったんです。
律法によって救われることはないということをパウロが徹底して主張した背景には、このような激しい体験があったからです。
パウロの劇的な変化は、まさに「目から鱗(うろこ)が落ちた」(使徒言行録九章十八節)と表現するにふさわしい出来事に見えたんでしょう。ルカの言葉でありますけれども、的を射た言葉です。
【パウロとイエスの福音】
パウロの体験は、それまでの彼の考え方を根底からひっくり返しました。世界がまるで違うものに見えるようになったでしょう。しかし同時に、努力しても救われなかった自分が、努力なしに救われることを知ったんです。これがパウロの悟り、パウロの救いです。
立法を護らなければ義(正しい者)とされないと思っていたパウロは、律法に関係なく救われることを知り、これこそイエスがお伝えになっていた福音であることを知ったはずです。
マルコ福音書には、律法によれば罪人と断定される人々、すなわち、社会の敵のように見られていた人々に寄り添い、何の条件も付けずに「赦し」や「救い」を宣言なさったイエスの生き様が描かれています。フィクションではなくイエスはそんな生き方を本当になさったはずです。イエスが殺されたことがそれを証明しています。これこそがイエスがお伝えになった福音です。このイエスの生き様から一時も目を離さずにぼくたちは考え行動していく必要があります。なぜならば、そういうことでなければ、誰も、もちろんあなたもぼくも救われないからです。
【福音に反する教えも聖書に書かれている】
さて、今日読んでいただいた聖書の箇所について考えてみましょう。
「偽善者のように、他人に見せびらかす祈りをしてはならない」ということが書かれております。なぜなら「彼らはすでに報いを受けている」という理由が書かれていますけれども、奇妙な響きを感じます。
かっこいいなあ、と思われるだけで、人からの報いを受けてしまっていることになるようです。そうなれば(天の)父からの報いが受けられない、ということです。
断食している時にも、それが悟られないようにしなさい(マタイ六章十六節〜十八節)といわれています。断食していることが気づかれたら、それだけで、人からの報いを受けている、ということになるようです。そうなると、隠れたことを見ておられる父から報われないらしいです。
人からほめられたり、感心されてしまえば、それは人から報われているのだから、父からは報われないということです。
とにかく、人から報われてしまえば、それでおしまい。父から報われることはない、というのは、なんとも、ケチ臭いというか、ちっちゃい心のように思えます。なんかスッキリしません。
【「報いてくださる」とは変な表現】
ちょっと話は逸れますが、今日の箇所に何度も出てくる「報いてくださる」という訳は、口語訳では「報いを受ける」と書かれていて同じ意味だと思いますが、ぼくは嫌いです。「報い」という言葉は良い響きじゃないからです。
「報いを受けるぞ」と聞きますと、否定的な恨み言のように感じます。それは、「報いる」という言葉には「仕返しする」という意味もあるからです。だから、日本語では、「あなたは報われる」とか「あなたは報われない」と表現したほうが、通りがいいと思います。
何はともあれ、人から報われてしまうと、父からは報われない、というのは、陳腐な考え方だと思います。それにしても、何をする時にも「報われたい」という気持ちが先立っているようでは、あさましく思えます。
このような考え方の基本には、何かをすれば報われる、という思想があります。これは因果応報、ギブアンドテイクの価値観です。ほとんどの経済的な価値観がこのようなものであることは認めます。しかしもしも、ここに書かれている数々の例話が、ギブアンドテイクの価値観によって作られているのだとすれば、先にお話ししたパウロやイエスの福音に対立しています。
【聖書の言葉を見極める】
福音は、ギブアンドテイクじゃない、とぼくは何度も言ってきましたように、先ほど見たパウロも、敵対していた時に関わってもらった、という体験をしておりますし、イエスも、律法の行いによらず、人は父から愛されていることを示しております。
つまり、イエスにしてもパウロにしても、何かふさわしいことをしたから報われるのではない、ということを福音として伝えています。
ということになりますと、報われるために、行いをととのえなさい、という生き方とは決定的に全く対立した生き方です。
このようなことから、ぼくが考えていることを端的に言わせていただきますと、今日読んでいただいた聖書の箇所(マタイ六章一節〜六節)やこれに類する箇所は、イエスが語った言葉ではない、というのがぼくの結論です。
これらの例話は、マタイの教会で語られていた説教かもしれませんが、イエスの福音を反映していません。
社会的に罪人と断定されていた人々に無条件で救いを宣言なさったイエスの福音から目をそらしてはならない、と言いましたように、イエスの福音を念頭に置けば、今日の箇所が、イエスご自身の言葉でないことが判るはずです。
聖書に書かれている言葉であっても、イエスが語ったかのように書かれていたとしても、イエスの福音に照らし合わせれば、真正のイエスの言葉でない、と判るはずです。このように聖書の言葉も見極める必要があります。
【ぼくたちは】
聖書の中のイエスの言葉だから、という理由で盲目的に信じるのは危険です。立派な先生方は多くの会衆の面前で立派な祈りを捧げておられます。つまり今日の言葉通りにはしておられませんから、心配してあげなくてもいいんでしょうが、それならそれで、「聖書をそのまま信じ行わなければならない」などと教えないようにするべきです。
とにかくぼくたちは、他人の評価に関係なく無条件で愛されているという福音から目を離さないで、生きていきましょう。そうすれば、愛されているという安心の世界で迷うことなく生活し続けることができるからです。