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「何にも囚われないための知恵を持つ」20190929
「何にも囚われないための知恵を持つ」2019年9月29日
礼拝の出席者が俄(にわか・急)に少なくなりました。全国的な傾向です。お寺も含め、伝統的な宗教から人離れが進んでいます。ところが、このような時代にこそ、騙す新興宗教や原理的宗教が流行ります。騙すために最新の脳科学を平気で使いますから、困ったもんです。
ですから、どんな概念に対しても、人間性を破壊されないように、自分を守る「知恵」を獲得する必要があります。組織にせよ宗教にせよ、邪悪な者たちの策略に囚われないように、精神を自立させて、現在と未来を構築して行きたいものです。
人集めのためにイベントをするお寺も増えていますが、集めるだけじゃなく、真実の安らぎを提供するために、組織を根本から構築し直さなければ、宗教離れを止めることはできないでしょう。
宗教は古い宇宙観です。新しい宇宙科学はどんどん新しい宇宙観を発表しています。人間の心に寄り添う本来の姿を取り戻さなければ、宗教の居場所がなくなるでしょう。
しかし、古い宗教観を捨てた人が、新しい概念に囚われるようでは、囚われの構造は変わりません。そんなことにならないために。何にも囚われない「知恵」の情報(福音)が今こそ必要です。
【永遠の命は金で買えない】
幸福になりたいと言う人に、何が必要かと尋ねますと、お金だと答える人が多いことから判る通り、現在の日本では、「お金」というビジネスの神が、既存の宗教の神に代わっているように感じます。お金が神に代わり、ビジネスが宗教に代わったとしても、囚われの構造は同じです。従来の宗教のように、人を虜(とりこ)にしている相手のイメージが見えていれば、対処もできますけれども、変幻自在なお金に対処するのは困難です。だからこそ、どんな相手にも対処できる「知恵」が今こそ必要なんです。
【金持ちの男が希望していたこと】
今日の物語には、多くの財産を持っていた人が、イエスに走り寄って、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいでしょうか」と尋ねています。走ってきたほどですから、財産を持っていただけじゃなくて、健康だったんでしょう。必要なものをすべて持っていたように感じます。先週見た中風の男のように、イエスの下に連れられきた病人たちとは、状況がまったく異なっています。
小さい頃から、ユダヤ教の教えを守って来たようですから、教えを守りながら生活するだけの余裕があったこともわかります。それほどたくさん持っている男が、他に欲しいものと言えば、永遠の命だけだったのかもしれません。
永遠の命が得られると思っていない現代の金持ちに望みを尋ねたら、アンチエージング(老化防止)というでしょう。しかし、イエスの時代に、神の戒めを守っている人が、最も望んでいたのは、「永遠の命」でした。
資産家の彼は、生活を楽しんでいました。そうでなければ、その生活が永遠に続くことを望んだりしません。苦しい生活が永遠に続くことを望む人はいません。
欲しいものを手に入れ、好きなように生活することができて、しかも健康でもある人が、最後に欲しいものは、楽しい生活を続けることができる永遠の命でした。ユダヤ教の教えにも忠実に従ってきた男は、永遠の命に入るつもりでいたはずです。ですから、イエスに尋ねたのは、ただ「君がしてきたことで十分だよ」と言われて安心したかったからでしょう。そんな程度です。
【金持ちの反応】
いくら多くの資産を持っていても、永遠の命を金で買うことはできません。永遠の命はお金と関係ない、ということです。そんなことぐらい、この男も知っています。しかし、あえて、イエスはその人の財産に言及して、「財産をすべて処分して、ぼくについてきなさい」と伝えます。
イエスがおっしゃったような突拍子もないことを彼は実行することができません。買いとるわけでもなくて、すべての財産を手放すだけで永遠の命が得られるなんて、思えません。彼は、気に入っている生活の水準を保ったままで、更に加えて、永遠の命が欲しかっただけなんですから、イエスの提案は論外です。
彼は、生活を保障してくれている富に満足しています。信頼している富を手放すことなどできません。彼がイエスの言葉を受け入れられなかったのは、当然です。彼の気持ちはぼくたちにも理解できます。彼は「お金に囚われている」ようです。
【お金が神に代わった】
昔ながらの宗教は、「幸せになるために、神を信じ、神に仕えなさい」と教えるでしょう。
今は、「お金があれば幸せに暮らせますよ。少なくとも今より好きなことがたくさんできます。」とか、「私が勧める組織に入れば、すぐにお金が手に入ります。わたしを信じてください」などと、説得的な言葉で誘います。
お金を第一にするビジネスは、現代版の宗教の一つです。新しいビジネスが、古い宗教と置き換わっただけです。お金があればほとんどの夢が叶う、という概念の組織が、人を取り込み、囚われ人を作るのは、かつての宗教と同じです。
イエスは、金持ちの男を取り込もうとしたわけじゃありません。もしも取り込むつもりであったならば、すべての財産と一緒に彼を取り込んだでしょう。しかしイエスにそんな気落ちは、これっぽちもありません。イエスは、資産家の男が財産に囚われていることに気づいたから、財産への囚われから解放される方法を提案しただけです。
しかし、彼は、イエスの提案を受け入れませんでした。生真面目に永遠の命を求めていた訳でもなさそうです。永遠の命のために、資産をすべて失うつもりはありません。資産を費(ついや)しても、永遠の命を得ることができないことぐらい、彼は十分に承知ています。もとより、財産と永遠の命など、何の関係もありません。現在の生活が資産によって支えられていることを、よく理解しているので、財産を手放すつもりはありません。
彼にとっては、宗教よりも財産が大切だということです。男の態度は、多くの現代人にも当てはまります。現代人もイエスの提案を受け入れることはできません。しかも、すべてを捨てれば永遠の命を得ることができる、とイエスは保証した訳でもないんです。正直なところ、イエスにも永遠の命の保証など、できません。そうだとすれば、この物語のイエスは、何を伝えようとしていたんでしょう。
金持ちの男は、生活に満足しています。現在の生活に満足しているなら、それで十分です。それ以上に望みを持つ必要はないんじゃないか、と思いますが、欲望は尽きないようです。貪欲です。
男は、生活水準を落とさないで、永遠の命を求めました。この男が、財産に囚われていることがわかります。財産に囚われていながら、求めても得られない永遠の命を求めただけです。そんなことを考えたから、失望して顔を曇らせて、その場を離れなければならなくなっただけです。
たとえ財産を捨てて、イエスについて行った、としても、無一物で宣教に遣わされたイエスの弟子たちのように、生活の心配をしなきゃならないことになるのは目に見えております。そうであるにも関わらず、イエスは、すべてを施して、ぼくについておいで、と平気で言いました。生活に必要なものは付いてくる、とでもイエスは思っていたんしょうか。能天気な人だったのかもしれません。とにかく、どんなことにも囚われない人を育てることが、イエスの願いだったんでしょう。もしもそれだけのことであったならば、こんな物語は、必要ないんじゃないかと思えます。
マルコは、何故こんな話を福音書に書き残したんでしょう。今日読んでいただいた話だけでは判らなかったので、続きを読んでみました。すると、この物語がここに置かれている理由が解ったように思えました。
【金持ちの男は弟子たちか】
続く物語で、イエスは弟子たちを見回しながら「財産のあるものが神の国に入るのは、何て難しいんだろう」と言います。引っかかる表現です。イエスの言葉を聞いた弟子たちも引っかかったんでしょう。驚いた弟子たちは、「そんなことなら、誰が救われることができるだろうか」と言っております。イエスの言葉は、顔を曇らせて去っていった金持ちの男を嘆いているんじゃないな、と気付きました。
マルコは、自分の育った時代の教会や教会指導者たちを批判するために福音書を書いた、とぼくはよく言います。そうだとすれば、マルコの目には、福音書を執筆した頃の弟子たちが写っていたはずです。その流れで読めば、資産持ちの男は、マルコが育った時代の教会で生活していた弟子たちを代表している可能性が高いと感じました。
イエスの十字架事件から数十年後の弟子たちこそ、物語に登場している資産家の男じゃないでしょうか。
イエスに従ったはずの弟子たちが、資産を得て、満足な生活を維持したままで、永遠の命まで手に入れようとしていたのかもしれません。そんな、過ぎた望みは叶えられない、とマルコは、イエスの言葉を通して、当時の弟子の状態を批判したんじゃないでしょうか。
ペトロが、すかさず「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言い出した、と書かれております。ペトロは「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った日の内に、イエスのことを三度も知らないと人前で誓った男です。ここにも強い批判があるようです。
【ぼくたちは】
どんな宗教にも、どんな神にも、お金にも、とにかく、何にも心を乗っ取られてならない、囚われてはいけない。そのために必要な知恵は、あなたはそのままで愛されているという確かな情報(福音)です。とにかく、何にも囚われないために、人間性を失わないために、ぼくたちは、ただイエスの福音を、信じましょう。