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「脳をリセットする」20210117

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「脳をリセットする」20210117

聖書 マタイ福音書 五章二十七節~二十八節

 

 先週は、ヨハネ福音書の中に書き込まれた、ヨハネ以外の人が書いた物語を読んでもらいました。へんな言い方に聞こえたと思いますけれども、その証拠は、初期の写本にこの部分が書かれていないことだと話しました。このような問題点は他にもいっぱいあるというのが事実です。

 いま言った「問題」という言葉はよく使われますけれども、この表現は判りにくいと思うので、ぼくはできるだけ使わないようにしています。それこそ、ぼくが何を「問題」にしているのか伝わらないと思うので説明しましょう。「解決するために議論が必要な事」と言い換えた方が良いとぼくは考えています。そう言い換えると、議論無しに、書かれたままを受け入れることなどできない内容が聖書にはいっぱいある、ということだと判っていただけるでしょう。端的に言えば、聖書を読む時には、考えたり議論しなければならないという意味です。

 

【妄信は狂信に見える】

 キリスト教会は、「聖書は神の言葉である」と長い間教えて来ましたから、その教えをそのまま信じ込んでいるクリスチャンが多いのです。しかし、聖書には誤りがない、という考え方に、客観的な根拠はありません。聖書自身がそう言っているから、というだけです。それは自己証明でしかなくて、客観的な証拠ではありません。

 証拠や理由のないものを、そのまま強く信じ込むことを盲信と言います。ただ強く信じ込んでいる人を、周りから見れば、聖書に取り憑かれているとしか見えません。カルトのような新興宗教に囚われている人と、何ら変わらないように見えるはずです。

 

【聖書は神の言葉ではない】

 初期の教会が作った「聖書は誤りなき神の言葉である」という信条を、現代でも多くの教会は告白しています。

 この告白が聖書の実際の記述に反しているにもかかわらず、この信条を守ることに、教会は拘(こだわ)り過ぎている、とぼくは考えております。

 思い込みという結果からデータを解析すると、中立的な科学判断ができなくなるのと同じように昔から教えられて来たことを守るために聖書を読んでしまうと、そこに書かれているメッセージの本当の意味を理解できないはずです。

 刷り込まれた思い込みから脱却して、自由な立場に立って聖書を読み直してみれば、今まで気づかなかった事に気づいたり、判らなかったことが理解できるようになり、聖書をもっと楽しく読めるようになるかもしれません。少なくともぼく個人としては、そう実感しています。

 「聖書は神の言葉である」という信条を、せっかく信じ込むことができたにもかかわらず、それを一度忘れて、信じていなかった頃に戻れと言われるのも酷であることは承知しています。けれども、そうするだけの価値はあるとぼくは思っています。

 

【聖書を捨てることではない】

 勘違いしないで下さい。あなたが、せっかく信じてきたことを捨てることは、決して聖書を捨てることじゃありません。聖書に対する自分の信念を、一時的に、横に置いてみる程度だと考えて下さい。

 信念なんて簡単に変わるもんじゃありませんから、自分の積み上げて来たことが全てなくなるわけではありません。ぼくがお勧めしたいのは、いままでの信念から一時的に自由になってみるだけのことです。そんなことで聖書は傷つきません。もとより、聖書を傷つけることなど、ぼくらにできることじゃありません。

 あなたが信念を一度捨てたぐらいでは、キリスト教の教義も変わりませんし、二千年続いて来た教会の制度も無くなりません。聖書の信仰を伝えて来たユダヤ教もキリスト教も、びくともしません。すでに客観的に出来上がっていて、長い歴史を持っているものは、何も変わりません。

 あなたが捨てることができるのは、あなたが信じて来た、あなたの信念だけです。だから、安心して捨ててみて下さい。戻りたくなれば、好きな時に戻ることができます。過去の努力の全てが無くなることは決してありませんから、安心してください。

 

【バックアップと再起動】

 話しは変わりますが、ぼくは四十年以上も前からコンピュータを使って説教を書いています。その頃はワードプロセッサーを立ち上げるだけでも時間がかかりました。昔と違って最近は、いろんな仕事を一つのパソコンで同時にこなせて便利です。プロブラムを終了しないで、蓋を閉じても壊れません。蓋を開ければ、また仕事を続けることができるようになっています。それでも時々は、完全に終了させてあげる必要があります。忙しすぎると、機嫌を損ねて、固まってしまったり、わざとゆっくりしか動いてくれなくなったりします。そんな時にはパソコンをリフレッシュさせてあげなきゃなりません。ただし、その前に、それまで蓄積して来たデータを無くしてしまわないために、保存しておく必要があります。つまりバックアップしておけば、いつでもそこに戻れます。

 それと同じだと考えればいいだけです。あなたが蓄積してきたことは、あなたの中に全て残っているはずです。必要な時にはそこに戻れます。ですから、あなたがスッキリした気持ちで考えを纏めることができるように、あなた自身のシステムを再起動させてみることをお勧めします。

 あなたが信じようが信じまいが、教会も教会教義もなんら変わらずにそこにありますから、心配しなくて大丈夫です。聖書や教会を捨てるんじゃなくて、あなたの考えを一度白紙から書き直してみるだけのことです。そうして、手始めにマルコ福音書を読んでみれば、新しいことに気づいて、楽しく聖書を読めるようになるとぼくは思っています。

 

【わたしは言う】

 さて、ある時、イエスは「アーメン、ぼくは君たちに言う」とおっしゃいました。今日読んでもらったマタイ福音書の五章には、この言葉が何度も出ておりますことから、イエスの特徴ある話し方だと言えるでしょう。しかも、律法の解釈や昔からの言い伝えを紹介した後に、「しかし、ぼくは言う」という仕方で自分の意見を述べているのが、最大の特徴です。律法そのものを否定しませんでしたが、昔から教えられて来た律法の解釈に対しては、「しかし」という言葉を用いて、反対の意思を言明しました。

 先週は姦淫の場で捉えられた女の話をしましたが、「情欲を持って女を見た者はだれでも姦淫したのである」(マタイ五章二十八節)なんてイエスは言ったんです。表面的に律法に従うだけではダメだと言っているように聞こえます。

 多くの人が従って来た律法の言葉を、徹底的に精神面にまで高揚させた感じに受け止められます。そこまで要求されたら到底無理だと思えます。だからでしょう、イエスに従う、と表明しておられる方でも、イエスの要求には答えていません。

 ちなみに、ある国の大統領就任式では、聖書の上に手を置いて宣誓する光景が有名ですが、あれは原理主義者を欺(あざむ)くためのパフォーマンス(演技)じゃないでしょうか。と言いますのも、イエスが「いっさい誓ってはならない」(同三十四節)とおっしゃったことを知っているにもかかわらず、わざわざ聖書に手を置いて誓っているからです。

 そのすぐ後で、「悪人に手向かうな」とおっしゃったイエスの言葉を無視して「目には目を、歯には歯を」を実践する訳ですからおどろかされます。「敵を愛せよ」とおっしゃったイエスの言葉を、完全に無視しておきながら、聖書を基礎にしていますというパフォーマンスをするんですから、欺瞞(ぎまん)です。本当に聖書に従いますということをパフォーマンスで表すなら、大統領の頭の上に聖書を載せるべきなのに、聖書の上に手を置いているんですから、大統領は聖書を押さえつけることができるんだ、ということを暗示しているように思えます。

 徹底的に律法に従う姿勢を、イエスがどういう意図で語ったのかは判りませんが、少なくとも当時の一般的な「律法解釈」に対して異議申し立てしていることは確実です。

 

【教会の決定事項を大切にしているだけ】

 とにかくイエスは、伝統的な律法解釈に反する意見を、平然と述べました。イエスの姿勢がそうであることが判っているにもかかわらず、熱心を自称するクリスチャンが、聖書全体を、言葉のまま信じ受け入れなきゃならない、と考えていることこそ、ぼくには不思議でなりません。

 そもそも、聖書が今の形に定着したのは四世紀の終盤です。キリスト教の教義がまとめられたのも、聖書の正典化に呼応しているでしょう。

 基礎的な教会教義は、その頃に行われた教会の会議においてまとめられたのは確かです。

 そうだとすれば、現代の教会も、その頃の教会会議の決議事項を大切にしているんです。大切にするだけではなく、それを死守するために奔走していたと言って過言じゃないでしょう。教会会議の決定事項に反対する勢力には激しい弾圧を行ない、多くの命を奪ったことも事実です。

 聖書についても、初期の教会の決定こそ真実である、という立場です。ということは、聖書そのものを大切にしているとは言えないでしょう。聖書そのものよりも、その聖書を正典だと決定した当時の教会決議を大切にしているということです。教会組織が、「聖書は神の言葉である」と決議して、聖書に権威を与えたのですから、教会会議決定事項の方が聖書本体よりも権威が強いということです。

 聖書を本当に大切に扱うならば、聖書にはさまざまな意見や解釈が書かれているという事実を認めるべきです。聖書の実情を認める(そのまま受け留める)ことが、聖書を誠実に読む姿勢だと思います。

 

【ぼくたちは】

 ですからぼくたちは、「聖書は誤りなき神の言葉である」という信条を捨てて、異なる意見やさまざまな勘違いさえも記録されている聖書を、そのまま受け留めて読んでいきたいと思います。

 そうすれば、先入観や思い込みに影響されずに、イエスが伝えた福音に、より近づけるかもしれません。今までにも、イエスが考えて来たことの深みが、垣間見えてきたように思います。これからも、姿勢を崩すことなく、人類の大きな知恵の資産である聖書を読んでいこうと考えております。あなたには、ぜひ、ご一緒願いたい、と望んでおります。

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