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「捨てても捨てられない」20210411
「捨てても捨てられない」20210411
聖書 ルカ福音書 二十四章十三節~三十五節
「捨てても捨てられない」という題ですけれども、最近流行りの、断捨離のことじゃありません。
一般的に、自分が捨てられるんじゃないかと思って心配している人が多いのですが、そんな心配は無用だよ、というお話をします。
「こんなことしていたら捨てられるんじゃないか」「あれをしなけりゃすてられるんじゃないか」というふうに、なんでも悪い方へ考える人が意外に多いようです。混迷を深めている子どもたちの多くも、そう考えているようです。悪い癖(くせ)と思えるほどです。こんなことが現実になる程、マイナス思考を育てる教育がおこなわれているからだ、とぼくは分析しております。
あるがままの自分が知られてしまうと、捨てられるんじゃないか、と恐れているから、自分の気持ちを出して前に進めない。多くの人は、そんな状況に陥(おちい)っている、と分析できます。これは公教育というシステムを通して行われている教育そのものが何かに侵(おか)されているからでしょう。恐れる脳の病気を蔓延させる教育が実施されている現状と似ています。このような教育は、民衆から独立精神を奪い、上からの命令に素直に従う民衆を作る目的で行われているのだと思います。日本には、そんな悪いことをする人はいませんよ、と反論なさる方が多いんですが、いえいえ、実際に、悪人は大勢います。
恐れを抱かされている人は、他人の実際の反応を見る前に(見るのが怖くて)、自分自身で早合点して、自分の意思を伝える前に諦(あきら)めてしまうようです。つまり、他人に捨てられる前に、自分から自分を捨ててしまうんです。
自分で自分を捨てているようでは、いつまで経っても幸せになれません。どんな状況になろうとも、自分を捨ててはいけません。自分を一番よく知っている自分自身が、自分の味方になってあげなければ、自分がかわいそうです。自分を認めて、自分を大切にする精神を育てる教育をしなければ自殺をなくすことはできません。だから、自分を捨ててはなりません。なすべきことは、自分の中に湧いて来る恐れを捨てることです。恐れは実態のないものです。恐れる気持ちを捨てればいいだけです。それだけで周りの見え方が変わるはずです。やってみてください。
【フィクションが悪い訳じゃない】
今日選んだ聖書の箇所には、人を切り捨てないイエスの生き様がとても美しく表現されております。現実の話しじゃなくてフィクションです。だからと言っても、意味がないというのではありません。フィクションが悪いなどとは決して思っていません。小説のような文学作品はフィクションであるからこそ、大切なことを考えさせることができますから大切な表現形式です。
ただし、事実を伝える科学的な論文と、小説のような創作物語を同じように読んでしまうと、頭が混乱します。読み方が大切なんです。
聖書は科学や歴史の論文じゃありません。むしろ歴史小説に近いと言えるでしょう。
すなわち、実際に、ある時代を生きた人物を登場させておりますけれども、その人物の言動の全てが真実だというのではなくて、そこには著者の考えや言葉が織り交ざっています。
それが悪いと言うんじゃなくて、どのような文章であるか、作者が何を語ろうとしているのか、と読者は考えながら読めばいいだけです。
「聖書は神の言葉であって間違いはない」という告白がありますけれども、だからといって、宇宙万物は神によって七日間で作られた、と認めさせるために書かれた科学の教科書ではありません。これを読んで「世界は七日間で神によって作られた」と教える人もおりますが、そのような使い方は誤(あやま)っています。その書物が悪いんじゃなくて、読み方が誤っているんです。
【イエスは弟子を見捨てなかった】
今日のフィクション(創作物語)には、殺されたはずのイエスが、復活させられた姿で、弟子たちと歩きながら話したり、一緒の食卓に着く情景が巧みに描かれております。とても好きな物語ですけれども、このままが史実だとは思いません。生前のイエスの生き様に端を発した物語でしょうけれども、そのままの出来事があった、と信じ込みなさい、と教える姿勢は、ただの押し付けです。信じ込まなくていいんです。
この逸話(いつわ)の背景には、イエスの生き様があると思います。この逸話から遡って、イエスのプロフィールを想像してみますと、イエスは、出来の悪い弟子たちを見捨てなかった人だったように感じます。
イエスというお方は、人を簡単に捨てたりしなかった、とぼくは勝手に思っています。理由は簡単です。出来の悪い弟子たちを最後まで切り捨てなかったことから判ります。一応は弟子たちと呼ばれていますけれども、弟子とは言えないような人々です。ただ、慣例に従って弟子と呼ぶことにして、話をつづけます。
イエスが捕らえられた時に、イエスの下には誰も残っていませんでした。日本の戦国時代に、殿様を放っておいて全員が逃げ出すなんてことは考えられません。あちらの国ではそんなことが普通にあるんでしょうか。とにかく、イエスが弟子たちを捨てなかったのに反して、弟子たちはイエスを簡単に捨てております。
十字架の下でイエスと会話した弟子がいたように描かれている記事(ヨハネ福音書十九章二十六節)がありますけれども、近づけなかったはずですので、フィクションでしょう。
その後、弟子たちは、誰かの家に匿(かくま)われていたようです。一週間後に、戸や窓を締め切って隠れていた弟子たちの前に、突然イエスが現れたという話(ヨハネ福音書二十章十九節)があります。イエスの幽霊だと思って弟子たちは恐れているところを見ると、やっぱり後ろめたかったんでしょう。
墓の前で、マグダラのマリアがイエスを見たというフィクションでは、マリヤは喜んでいまにもイエスに抱きつこうとした(ヨハネ福音書二十章十七節)ように感じますから、マリアと弟子たちの態度の差は歴然(れきぜん・はっきりして間違いようの無いさま)としています。
そんな弟子たちに、イエスは恐れるな、と語りかけたように描写されております。イエスは、裏切った弟子たちをさえ恨むような方でなかった、と著者は受け止めています。
この時に、トマスという名の弟子がいなかったという逸話は有名です。自分が留守の間にイエスが姿を見せたなんて、「おれはお前たちの言うことなんか信じない」自分だけがシカトされたかのように、イエスに腹を立てて、「おれは、脇腹を槍で刺された傷跡に手を突っ込んで、手の釘跡に指を突っ込むまで信じない」と、自分が裏切ったイエスを逆恨みして、恨み言を言っているトマスの前にイエスが突然現れて、「やってみい。突っ込んでみい」と言います。トマスが恐れて引き下がると、「見たから信じたのか。見ないで信じるものは幸いである」などというわけです。結局は見ないで信じる方がいいんだよ、と言うのは、見るすべがない人への慰めです。
いずれにしても、イエスは弟子たちを見捨てない方であったように描かれています。
【背を向けた弟子たちと同じ方向に歩む】
ルカ福音書は、弟子二名が、早くも、エルサレムを背にして、故郷への道を急いでいた物語を描いております。この逸話は「エマオ途上」という名で有名です。途上というよりも、エルサレムからの敗走中と言った方が、内容に則しているでしょう。
この逸話では弟子二人の名前が明かされていないことが気になります。トマスの逸話は、恥ずかしいことであるにもかかわらず、トマスの名が明かされています。これに比べて、敗走したとは言え、最後に、エルサレムに戻るのですから、弟子二人の名前を出しても恥ずかしくないはずですのに、弟子の名を明かせていません。この事実は、この逸話がフィクションであることを、裏付けていると思います。
とにかく、弟子二人が、エルサレムでの悔(くや)しい思い出を話しながら歩いていると、どこからともなく、二人に近づいてきて、話しかけた人がいたそうです。
「それは(復活した)イエスだった」と断り書きを付けていることから判るように、弟子二人にはイエスだと認識できない姿だった、と説明されていることが重要です。
この物語が伝えようとしているのは、逃げ出した弟子にも、そのまま切り捨てないで、イエスは優しく関わってくださる方だった、というイエスの生き様だと思います。
イエスを捨てて、エルサレムに背を向けて歩いている弟子二人に、復活のイエスは、彼らと同じ方向に進みながら近づいてきたという設定です。正面から弟子たちに向かって来たんじゃないということが重要です。正面から向かって来て、エルサレムに戻れ、と命令したんじゃなくて、逃げる弟子たちと同じ方向に歩みを進めながら話しかけている場面設定が素敵です。
そして、弟子たちが理解できなかったことを、歩きながら解き明かして下さった、と言うんです。そうしているうちに、弟子たちの歩みも遅くなり、夕刻が近づいたので、エマオで宿をとることを弟子たちの方から提案します。もっと話を聞きたいと思っている様子が伺えます。
師匠であったイエスが殺された事件を受けて敗走している弟子たちですから、睡眠も食事も不足していたに違いありません。食事も喉を通らないまでに意気消沈しているはずの弟子たちでさえ、空腹を感じるほどに、落ち着きを取り戻したようです。三人が共に食卓に着くとイエスが感謝してパンを裂いて二人に手渡します。その時、弟子二人の目が開いて、イエスだと気付きます。喜びも束の間、イエスの姿は見えなくなった。すると、エルサレムに戻れと命令されてもいないのに、二人は自分たちの意思で、急いでエルサレムに戻ったという筋書きです。
命令じゃ誰も強くなれません。気の弱い人に強くならなきゃダメだ、と命令しても更に弱くなって潰れるのが落ちです。
生前のイエスは、自分が捨てられても、弟子たちを捨てなかった。そんなイエスの生き様を弟子二人も、時間をかけて悟ることができた、という心温まる優しいお話しだと思います。
【ぼくたちは】
自分は捨てられる、と思っている人に言っておきます。いやいや、あなたは捨てられません。捨てられた、と感じたとすれば、捨てられる前にあなた自身が捨ててしまっただけのことです。たとえそんな「へま」(まのぬけたこと)をしたとしても、あなたとの関係を大切にしようと思っている人は、あなたを捨てません。
あなたに関わろうとしてくれるイエスのような人はいるものです。だから、自分に関わってくれる人や、自分自身を捨ててはなりません。捨てるべきは、捨てられるんじゃないか、という恐れだけです。
たとえあなたが「捨てても」あなたは「捨てられません」。イエスの生き様によって、ぼくは捨てられませんでした。だから、ぼくも、あなたを捨てません。たぶん。わからんけど。これが今日の説教題の意味です。