説教の題名を押して下さい
「一人の女がイエスを癒した」20230326
「一人の女がイエスを癒した」20230326
聖書 マルコ 十四章一節〜九節
復活祭まであと二週間になりました。イエスの降誕祭(クリスマス)前には、なぜか喜びと期待に溢れて世間も教会も大騒ぎします。しかし、日本で復活祭に騒ぎは起きません。カトリックの影響が強く残っている地域には大騒ぎする国もあるようです。たとえば、復活祭の四十日前からキリストと苦難を共にするというような意味で肉食を制限した地方では、肉を断つ期間が始まる前に、いっぱい食べて楽しんだようです。それが元々断肉という意味をもつカーニバルという名前の祭に発展したのだそうです。断肉前に食い溜めしておくような断肉にどんな意味があるのか、ぼくにはよく理解できません。
次週は棕櫚(しゅろ)の日曜日です。イエスがエルサレムに登る道に葉の付いた木の枝を敷いた記事(マルコ十一章八節)があるのですが、これをヨハネは「なつめやしの枝を」(ヨハネ十二章十二節)道に敷いたと書いているので、棕櫚の日曜日(パーム・サンデー)と呼ばれるようになったのです。その日から捕えられるまでの五日間、イエスはベタニア村からエルサレム神殿に通って、宗教家たちと論争したようです。
今日読んでいただいた記事は、イエスが最期を迎える二日前ころのことですから、今日この話をいたしますと、時系列を乱すことになりますが、なにしろ、イエスがエルサレムに通い始めてから一週間の出来事を話す機会があまりにも少ないものですから、順不同で話すことをご了承願います。
さて、今日の物語は、イエスが捕えられる二日ほど前の出来事です。イエスの情報を敵方に渡して直接にイエスを裏切ったとされるユダ以外の弟子たちは、先週も言いましたように、イエスの危機を感じ取っていませんでした。
【弟子はイエスの危機感を共有していない】
危機を伝えているイエスの言葉を真摯に受け止めていなかったことは、ペトロの態度、その他の弟子たちが、まともに聞いていなかったことからも判ります。
一度目の受難予告の記事では、「そんなことを言うべきではありません。そんなことがあってはなりません」(マルコ八章三十二節)とペトロはイエスをいさめたと書かれています。また二度目の受難予告の際には「弟子たちはこの言葉が解らなかったが、怖くて尋ねられなかった」(マルコ九章三十二節)とありますし、三度目の予告の前には、危険を承知の上で先頭に立ってどんどんエルサレムに登っていくイエスの姿に、弟子たちは驚き、恐れを感じていた(マルコ十章三十二節)と記されています。嫌なことは聞き逃すのが人間です。イエスがおっしゃったことに恐れを感じていたものの、弟子たちは怖くて訪ねもしなかったのです。それは臭いものに蓋じゃありませんが、怖いものに蓋をするという姿勢です。危機を呼びかけたイエスの言葉に弟子たちは真剣に取り組もうとさえしませんでした。取り組む勇気がなかったのでしょう。
このような弟子たちの姿は、現在の日本国民の姿に似ています。危機に覆われた世界の状況に恐れを感じながらも、情報を深く掘り下げて知ろうともしないし対策を考えようともしない日本国民の姿にそっくりだとぼくは感じます。
そんな弟子たちに囲まれていたイエスは孤独だったに違いありません。
【イエスの危機表明に応えたのは一人の女】
自分の思いが伝わらないという孤独に苦しんでいたイエスの心を理解して癒した女がいたことを、今日の物語は伝えているのだと思います。
ベタニア村の一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油が入った石膏の壺を壊してイエスの頭に注ぎかけたと伝えられています。
ヨハネ福音書によれば、この女はベタニア村のライ病人であったラザロの妹、またマルタの妹マリアです。そう考えるのが順当であると思いますけれども、マルコは敢(あ)えて「一人の女」と書いているのです。また「非常に高価な」とマルコが表現した香油の価値をヨハネは三百デナリオンと表現しています。このように具体的な値段を聞かされますと、その金額の多さに目を奪われるのが落ちです。ですから、マルコは敢えてそのような表記を避けたのだと思います。いずれにしても、高価な油一瓶全部をイエスに注ぎかけたなんて異常行動に見えます。イエスの頭が油でベタベタになったんじゃないか、と心配なさった方もおられます。無駄な使い方をしたものだと批判するのも無理ありません。しかし、イエスが受けようとしている苦難は、それに値することなのだということを、この女は理解していたという印なのです。イエスがしようとしていること、イエスがこれから苦難を受け、イエスが殺されるということを女は理解していたということです。イエスの表明にもかかわらず男たちが見ようとしてこなかった事実を女は真剣に受け止めていたということなのです。
ベタニア村のマリアは、たぶんイエスに惚れていたでしょう。惚れていたからイエスを理解できたのだという解釈もできますけれども、そうであったなら、ペトロと同様に「そんなことおっしゃってはなりません」と諌(いさ)めたことでしょう。しかしそうではなくて、イエスがなそうとしていた事をそのまま受け止めて、葬りの準備までしたのですから、好き嫌いを超えた意志を感じます。ですからマルコは敢えて名前を伏せて「一人の女が」と書いたと思います。
イエスを守る力のない一人の女が、できる限りの事をしてくれたのだ、と理解したイエスは「女は葬りの準備をしてくれたのだ」と弟子たちに説明しました。たくさんいた男の弟子たちが誰もできなかったことを一人の女がやってのけたのですから、後世に伝えられて然(しか)るべき物語なのです。
【ぼくたちは】
自分がしようとしていることを誰にも理解されないまま、しかも、いのちの破局に向かって行くことほど苦しい状況はないはずです。そんな状況を説明したにもかかわらず、同行者の弟子たちは誰もイエスの思いを共有できていなかったのです。そんな中で、権力も実力もない一人の女が、弟子たちを差し置いて自分の思いを表明することなどできなかったはずです。そこでこの女は、満を持して高価な香油のすべてをイエスに注ぎかけたのです。イエスがなさっている事やこれから受ける苦難と殺害の予告をすべてわたしは理解しています、という合図を送ったのだと思います。この行為を受けて、イエスは癒されたに違いありません。イエスを助ける実質的な能力が無くても、一人の女が、状況を受け止め、心を支えてくれたから、イエスは癒されたはずです。
実質的な助けも必要ですが、ほとんどの場合は手助けができません。基本的には本人が立ち向かわなければならないことばかりです。たとえ、実質的な助けにならないことが判っていても、人の心を支えることは何ものにも代え難い意味があるのだと思います。
見るだけでも苦しくて、目を背けずにはおけないことであっても、その現実をしっかり見て、状況を把握しないことには、気持ちを共有できません。人は自分の気持ちを共有してくれる人を望んでいます。気持ちを共有してもらえれば支えられ救われます。ですから、イエスは一人の女に癒され救われた事実をその場にいた弟子たち全員に伝えたというのが今日の物語です。