説教の題名を押して下さい
「監視社会」20211031
「監視社会」20211031
聖書 マタイによる福音書二十三章一節〜四節
イエスの時代のイスラエルは、ユダヤ教が蔓延している社会でした。ユダヤの教えに素直に従うか従わないかによって、善い民か悪い民かを判断し、分離し差別することが行われていたのですから、ユダヤ教が民衆の心(信仰心)を支配していたことは確かです。ユダヤ教が民衆を差別する試金石とされ、監視社会が出来ていたのです。これは、二十世紀に、ドイツの独裁者が、人種によって国民を分離差別してユダヤ人を排除したのと同じ仕組みです。現代でも人種差別が横行しているアメリカでは、お注射摂取済みパスポートによって国民を差別しています。
個人主義が強いフランスでは、お注射しない自由を主張している人がパスポート制度に反対して大きなデモをしたそうです。このようなニュースが日本で報道されないのは日本政府もアメリカ型の差別を採用しようとしているからでしょう。お注射の毒性や効力についての情報を国民に公正(かたよりなく平等)に示すこともせずに、政治権力の決定事項を押し付けてくるのは人権侵害です。政府に仕える報道姿勢は昔も今も同じなのです。
【仕組みが恐ろしいのではない】
国民を分離差別する仕組みが恐ろしいのではありません。差別の構造を社会に組み込むだけでなく、国民の心に差別意識を植え込んで機能させることが恐ろしいのです。
ここ数年、正体不明の病気が報告されつづけています。そして、その病気の蔓延を恐れさせ、恐怖心を煽(あお)った上で、政府はお抱えの専門家に解決法を述べさせました。
政府が国民を騙すはずがないと思っておられる優しい人の心を扇動している、としか優しくないぼくには思えないのです。
政府の宣伝に従順な人は、不従順な人から感染させられると思い込み不安になりました。不安による恐れを抱いた心優しい人が、不従順な人を憎み、激しい暴力を振った事件もありました。「何とか警察」という自警団まで作って、同じ国民の中から不従順な人を、炙(あぶ)り出そうとしたのは、戦争時代じゃなくて現代です。
【差別は無くならない】
人を差別しようと思えば、どんなことでも利用できます。どの時代のどの国を見ても、差別が無かった試しはありません。ということは、人間の性格の基本には差別する性質が備わっているということです。動物であるヒトの自己防衛本能と関連があるからでしょう。たとえば、周りからの攻撃から自分と家族を守ろうとする当然の衝動(しょうどう・本能的な行動)です。だから、分離や差別は人間社会から無くなりません。ただし、群れどうしの差別が戦争に発展すれば、群れを守るどころか、返って群れを危険に晒すことになります。社会の知識がある程度進むと、このあたりのバランスを考えるようになり、互いの平和を求める文化も生まれたのでしょう。
しかし、力のバランスは常に変わります。ここ数千年の歴史でも、独裁的な力を握(にぎ)る人が興って平和な状態を何度も壊しています。
ですから、民衆が自分たちの平和を守るためには、このような歪(いびつ)なことが起こらないようにする必要がります。自分ばかりを強調する人を作らずに、常に相手のことも考えるバランス感覚のある人、つまり「出来た人(人柄が円満で立派な人)」を作り出す必要があります。
【イエスは円満じゃなくて出来た人】
指導者たちに論争を挑んでいることから判るようにイエスは単なる「円満な人」ではありませんでした。
権力者に諂(へつら)う人、すなわち、偉い人にヘコヘコする人を円満な人とは言えません。なぜなら、差別を強要してくる権力者や暴力者に従順な人は差別や弾圧を認めている人ですから、逆の立場に立った時には、自分よりも弱い人を平気で弾圧するでしょう。このような人はけっして円満な人とは言えません。
これに対してイエスは「出来た人」であったとぼくは考えております。宗教者たちを偽善者(詐欺師)と呼んで激しく攻撃しましたのは、宗教者が弱者を抑圧する側に立っていたからです。もしも、宗教家が権力者と民衆の間に立って民衆を守る行動に出ていたならば、イエスが彼らを攻撃することはなかったでしょう。
ユダヤ教の教えが国中を支配していた土地で、民衆の手で罪人(ユダヤ教の教えに従わない人)を炙り出すことが平気で行われていた社会、すなわち監視社会で、イエスは、律法の専門家を批判したほど「出来た人」です。
イエスの福音に感動した人々(やはりユダヤ教の教えに素直に従うことが出来なかった人々)の中には、イエスの激しい言動を喜んだ人々もいました。しかし、イエスが何の抵抗もなく捕らえられ鞭打たれた時に多くの人が遠巻きに見ていたことから判りますように、イエスを助けようとした人はいません。自分が差別されることを誰もが恐れたからです。
イエスは官憲からも民衆からも監視される社会の中でユダヤ教の指導者たちを批判したのですから、命の危険を覚悟していました。危険を承知の上で、言わなければ、もっと大きな危機に追い込まれることを知っていたからです。
直前の危険に自らが晒されないために、判らないことがあっても、黙って従う人が多いことは理解できます。自分で調べたり考えることをせずに、長いものに巻かれ強い流れにながされるのが人の常です。それで済めば良いのですが、そうはいかないのが現実です。
従順で心優しい人々が、かつての戦争に巻き込まれたんじゃないでしょうか。支那事変以降十五年間の死者数は三百十万人、父のようにシベリアに抑留されて強制労働させられたのは六十万人と言われています。そんな悲劇に巻き込まれないためには、自由にものが言える間に、政治の勉強もして、もっと声を上げるべきだと思います。もちろんなかなかできることでないことは判っています。大東亜戦争の終戦を迎えるまで、日本でも、イエスのように権力者を批判した人は命を狙われたのです。
近頃の感染病とお注射について、一方的に流される大本営発表を信じ、世間体に流されている人が多いのが現実です。国民を差別する道具のパスポートも導入され、差別されることを恐れて注射を受ける人も多くなるでしょう。このままでは、お注射が原因で亡くなる人が病気で亡くなる人を上回るのではないかと心配しています。マイノリティーに関して敏感に反応するキリスト教徒でも、お注射パスポートに反対する人が少ないのが現実です。
ぼくたちのこの時代で、すでに言論がこれほど抑制されているのですから、危機が迫っていると考えるべきです。
【ぼくたちは】
人を罠に陥れ、重荷を負わせるだけ負わせ、指一本貸そうとしないのが権力者です。いやいやそんな悪人がいるはずない、と心優しい人は思うのでしょうがそれこそが思い込みです。クリスチャンが大好きなイエス様が批判した対象は、宗教指導者です。口だけじゃなくて本当にイエスを信じたらどうでしょう。円満なクリスチャンになる必要はありません。ぼくらはイエス様を見習って「出来た人」になる必要があります。