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「他者から支配されない」20231112
「他者から支配されない」20231112
先週は月曜日から長崎県の壱岐の島に二泊、それから福岡に一泊して木曜日の夕方に札幌に帰ってきました。気温差は十度、気候だけでなく風土の違いを肌で感じてきました。
人間は皆、限界を持っています。宿命と言ってもよいものです。たとえば、生まれた時代、場所、親を変えることはできません。
戦場に生まれた子ども達を見るとかわいそうだと思いますけれども、そこに住んでいたその時代のその親からでなければ生まれなかったのですから、それらは変更の可能性がない宿命なのです。
戦場で飢えた子ども達をテレビで見ながらぼくたちは暖かい場所で夕食を採ることができます。食べ物を分けてあげたくても、戦場の子ども達に届ける術(すべ)がないのです。時代や場所や、人種によって、それぞれが受けている制限を乗り越えることはできません。しかし、変えることができない宿命とは別に、人にはそれぞれの感性があり、自分で選んだり生き方を決めたり変えたりできる運命を持っています。基本的に人は、牢屋に閉じ込められている囚人のように、他者に生活の仕方を束縛されない自由を持っているのです。
そうであるにもかかわらず、地域社会の風習などによって、個人が束縛されることを、当たり前であるかのように教える人々がいます。
対等な相互関係を大切にしている振りをするために契約という言葉を使いながらも、その実、一方的な要求を押し付けて来るのが、世の多くの権力というものです。
先の大戦後に日本人に対する占領政策を、言わば恒久的(こうきゅうてき)に続けようとした占領国アメリカの指導者達も弱者日本人を束縛し続けている権力です。占領時代に植え付けられたアメリカへの忠誠心が今もそのまま日本人の心の深い所に生き続けているように思えます。
強引な手法によって弱者を統制する権力者がいますけれども、巧みに庶民を誘導する者たちもいます。そして、カルトではない多くの宗教も巧みな権力の一つであると思います。本来的に人は自由であるという基本的人権を押し潰して、人間というものは、基本的に上から与えられる指示に従うべき存在なのだと教え刷り込むのが宗教の役割であるように思います。
個人を超える存在である神に絶対服従する生き方を小さな時から教え込み、神に服従する仕方を教える指導者の言葉に聞き従うように民衆をマインドコントロールしてきたのが宗教の役割のようです。このように、民衆をマインドコントロールする宗教に対して、民衆がマインドコントロ―ルされている状態から解き放とうとなさったのがイエスであったとぼくは解釈しております。
【宣教内容が全く逆向きになっている】
先日、日本バプテスト連盟の全国壮年大会の報告書が送られてきました。礼拝出席者数の減少と高齢化が進み、元気がなくなった教会をどうすれば元気にすることができるかと悩んでいる教会がほとんどだと言ってよいでしょう。この現状を打破して、人数を増やすために宣教が必要だと誰もが言っております。そこでズームの利用や地域社会への貢献度を上げようとしている教会も多いようです。しかし、参加者を増やすには、いかに宣伝すればよいかという方法論だけが話題にされているように思いました。方法論だけが議論されているということは、宣伝する中身に関して疑問を持っていないということです。
このような報告を読んで、宣教方法を問う前に、何を宣教するかという中心、現状の宣教内容を問うことこそ必要であるとぼくは感じました。
今まで、キリスト教の正統派と呼ばれてきた教会は、キリスト教の神に従う人を作るのが宣教だと信じ込んで、そのような宣教を実施してきたと思います。既存の多くの教会は、自分たちが伝えるべき内容は確定していると信じ込んでいます。しかし実際には、イエスと教会の宣教内容の理解が全く異なっているとぼくには思えるのです。
イエスは、人を従わせる神を信じ込ませるような働きをなさいませんでした。むしろ、神に従うことを教え強要する伝統的な宗教の教えに縛られて自信をなくしている人に、イエスは自己肯定感を持たせるための働きをなさったのだと思います。
すなわち、宗教としてのキリスト教は、人を束縛する神を信じて神の命令に服従することを教えているのだとぼくは理解しています。しかし、イエスは、ユダヤにおける伝統的な宗教が伝えていた人の生活を束縛する神に捕らわれない生き方を伝えたのだと理解しています。この二つは服従か自由かということですから方向性が正反対なのです。教会の福音宣教とイエスの福音宣教は正反対のベクトルなのです。綱引き合戦のように方向が全く逆ならば、イエスを主と告白しつつも、教会のしていることは、イエスがまったく望んでいない活動だとぼくには思えます。
この二つは、ベクトル(力の方向)が正反対である。これを理解している教会は少ない。この現状が現代の教会が抱えている最大の問題点だとぼくは理解しています。
【神概念は刷り込まれたものでしかない】
ほとんどの人は、神が世界を支配しているかのように無意識に考えているはずです。その証拠に、机の引き出しにしまってあって古くなったお守りをゴミ箱に捨てられない、とか仏壇や神社の前に行ったら手を合わせずにはいられないとか、それぞれあるはずです。
神様でも仏様でも、対象に呼びかける名前なんて何でもいいんですけれども、とにかく人間を越えた存在に生かされているとか守られているとか、すべてを見張られているように感じている人が多いはずです。人が見えない何かに向かって祈るのも同じ理由でしょう。意識しなくてもそうなるのは、そうするように教え込まれてきたからです。
【神への忠誠を教え込む神話に支配されない】
ノアは神に従う無垢な人であった、ノアは神と共に歩んだ(六章九節)と書かれています。それゆえに方舟を作るように指示されたことになっており、ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした(二十二節)と書かれております。ノアのように神の前に無垢で神の命令に忠実な者だけが救われるのだと、神話は神への姿勢を教え刷り込むために用いられてきたのです。神話の神は服従を求めます。しかしイエスは服従できない人にそれでもよいと教えます。現代人が求めているのは、そのままの自分を受け入れてくれるイエスが伝えた福音です。「他者から支配されない」生活を支持してくれるイエスの福音を伝えるならば、教会は元気になるはずです。大切なのは方法論ではなくてイエスの福音を中心に据えることだとぼくは思います。