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「うその常識」20210502
「うその常識」20210502
聖書 マルコ福音書 二章五節〜七節
四十八年前に、第一次オイルショックがあって、トイレットペーパーが無くなるという噂(うわさ)が流れて、主婦たちが買い漁(あさ)りました。十一年前の東日本大震災の際にも、スーパーの棚が空になりました。ウイルスの蔓延が報じられた昨年はマスクが棚から消え、しばらくの期間は、品不足で高騰しました。
今はワクチンの品不足や接種不足がとりあげられていると同時に、個人の生活態度が問題視され続けています。本当の情報が判らないまま、噂ひとつで、庶民が右往左往する現実を、ぼくたちは体験させられています。
【人心を左右する綺麗な言葉】
近頃は病気の話題ばかりです。恐れを掻き立てる報道ばかりで気に入りません。
少し前までは、よく練り上げられた言葉を使って人心をとらえていたと思います。たとえば、医療に関わることでも「健康診断」だなんて、感心するほど綺麗な言葉を使っています。「病気診断」と言わないんですからすごいですよね。「病気診断」なんて言われると誰も受けたがりません。しかし「健康診断」と言われますと、自覚症状がない人でも全員が受けたくなるでしょう。
ところが、背景にはいろんな画策があったようです。たとえば血圧の指標の変化は有名です。
2000年までは上が180を越えていなければ高血圧症じゃなかったようですが、2008年には130を超えたら高血圧症(現在の目安は140〜90)と診断されるようになったんだそうです。指標を変化させただけで、血圧を下げる降圧剤(こうあつざい)の売り上げは5倍いじょうにもなったようです。巨大製薬産業の餌食になっているんでしょう。
実は、高齢者の血圧が高めなのも、血栓(けっせん)が血管内に引っかかって脳梗塞(のうこうそく)を起こさないように、体が反応して血圧を上げているのではないかという説もあります。人それぞれだと思うんですが、130超えたら要注意、というお茶のコマーシャルもありますように、そんな言葉をたくさん聞かされると、わたしは病人かも、という思いが刷り込まれます。
今度のワクチンをお金のない国には無償供与しているそうです。人道的な措置のように見えますけれども、無償で治験しているようにも見えます。
副作用が出ても製薬会社に責任追求しませんという契約で、同じ物を、お金のある日本は買わされているんです。兆を超える金額が日本から持ち出されるんですから恐ろしいことです。
国民の多くを病人に認定し、医療者に任せ、医薬品漬けにすることには経済効果があることは判ります。しかし、病院を元気にすることは健康的じゃありません。(笑)
とにかく、健康でも何でも、悩んでいる人が多いんです。悩むように導かれていると考えた方が話の筋が通るようにぼくには思えます。
さて、専門分野でないことばかり話しました。専門家でなくてもちょっと考えれば判ることばかりですから毒にならないと思って話しました。しかし、そろそろ、ぼくの専門分野の話に移っていきましょう。
【根拠がない言葉は詐欺師の言葉】
今日の言葉の中に、「神以外の誰が罪を赦すことができるだろうか(神以外にはできない)」という言葉がありました。これは、当時のユダヤ社会の常識です。
しかし、「罪を赦すことができるのは神だけ」という考えがどこから出てきているのか。根拠は何か、ぼくにはぜんぜん見当がつきません。
教会は、聖書に書いてあるから、という根拠を一番に揚げるでしょう。しかし、聖書は人の言葉です。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの第二の手紙三章十六節)とあります。いわゆる第二テモテの書き出しには「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから・・・」と書かれておりますけれども、どう見てもパウロ本人が書いたものではありません。岩波版新約聖書の解説には起源百年前後に執筆されたものだろうと書かれておりますように、パウロの死後四十年以上も後に書かれたものでしょう。
要するに、ぼくが言いたいことは、ぼくたちが聖書と呼んでいる書物の中に、偽書(ぎしょ)や贋作(がんさく・にせもの)がある、ということです。まさか誰も、このようなものも神の霊の導きの下に書かれたとは言えないでしょう。どう足掻(あが)いても、聖書と呼ばれる文書群は人間が考え、人間が書いたものです。「聖書は神の言葉である」という信仰告白は妄想です。
【「神はおっしゃった」という人は詐欺師】
心地いい表現ができませんけれども、神の言葉である、という表現自体が嘘、でっち上げ、イカサマです。「夢物語」あるいは「精神の拠り所」とでも表現すればいいんでしょうが、そんな甘い表現をすると誤解されますから、はっきり言っておきます。真実じゃなくて嘘です。
今日紹介した言葉は社会常識ですけれども、ユダヤ教の指導者たちの言葉です。
神が罪を認定するのだから、罪を赦すことができるのは神だけ、という考え方に根ざしているのでしょう。しかし、これは人の考え方の一つでしかありません。事実じゃありません。
「神が宇宙を創造した」「神は罪(神に逆らうこと)を許さない」「神は罪人を裁く」、このようなことを言っているのは人です。
神の言葉や考え方であるという証拠はありません。むしろ、すべて、人間のことばであることの証拠です。人が神に扮(ふん・演劇である人物の姿になる)して言っているだけです。
またもや、嫌われる言葉を使いますことをお許しください。というのも、そう言われるに相応しい行為だからです。「神は・・・」という常套句(じょうとうく・決まり文句)で話されることは全て「嘘(うそ)」です。「神は・・・」ではなくて「わたしは・・・」と言うなら判ります。しかし、著者や話者自信が理解できていない、理解できるはずのない神を主語にして「神は・・・」と語るフレーズは「嘘」です。ぼくが怖いと思っているのは、宗教を信じているほとんどの人が、このような「嘘」を疑うことすらできなくなっているほどに信じ切って、さらに、周りの人々と共有しようとさえしていることです。
なぜか人間は、自分の罪を認めたがります。そのように誘導され、思い込まされているからに違いありません。どんな宗教も、人間のこの傾向を利用しています。
自分がまったく関わり得ないほど大きい自然災害が起こった時にも、自分に何かしらの非があったからこんなことが起こったんじゃないか、と考える人が多いようです。大きい自然災害を、天災と言い表すのは、まるで天から与えられた罰(ばつ)のように考える人が多いからです。
あなたのすることが天から禍(わざわい)を招くほどあなたの存在は大きいでしょうか。そんなわけありませんよね。
人間には禍としか思えないようなことが起こっても、それがあなたの犯した罪の結果でないことは確かです。自然の成り行きです。
大きな権力を握った人が、政策を誤ったがために、多くの人が死んでしまった、などという人災はあり得ます。しかし、多くの人を殺した罪人が、犠牲者よりも幸せそうで長生きすることがあるように、禍(わざわい)は罪の結果じゃありません。
病気や身体障害を持つことも、個人の罪の結果じゃありません。生活習慣病という言葉がありますように、個人の生活の仕方が原因で病気になることはあります。けれども神に対する罪の結果なんかじゃありません。支配者は、都合の悪い出来事を何でもかんでも、個人の責任にしますが、その方法は、根拠のないイカサマ、ペテン、詐欺です。
高血圧でも糖尿病でも、お金がある内は、経済を回すために医療費補助を出しますけれども、予算が足りなくなれば、個人負担の割合を増やすでしょう。
病気になるのは、本人の責任でもあるんだから、応分の負担はしてもらわなければ、医療費を使わない健康な人に不公平だ、などという議論もあります。
糖尿病は昔から贅沢病だといわれていたほどですから、生活習慣が悪い本人の責任だ、という論法です。個人に責任のあることまで保険で保護することはできない、なんてことになりますと、生活習慣病に関しての薬は百パーセント自己負担、なんてことになりかねません。
とても上手な言い回しですから「それも一理ある」と納得する人も多いでしょう。そのように、社会組織は、いろんな出来事を個人の責任にしようとするものです。そのように自己責任を追求されなくても、だれも、家族や隣人や社会の足手まといになりたくありません。足手まといになったら悪いなあ、と思います。その優しさに付け込んで罪意識を持たせるのが宗教です。
【人として応えたイエス】
罪意識を植え付けられ、社会生活から締め出された人が多くいたのでしょう。病気は本人の責任(なんらかの罪の結果)によるものだ、と露骨に病人を責める社会にイエスは暮らしていました。暮らしの良し悪しも本人の責任にされていた、と思います。今も同じです。
罪人だと社会が断定していた重篤な病人に対して、イエスは「あなたの罪は赦される」と言い切りました。イエスは社会の常識を完全に否定したんです。このようなことをしたイエスに対して、律法学者たちの心の声が示されております。それが、「罪を赦せるのは神だけだ」という言葉です。
実は、後に出来たキリスト教会も、ユダヤ教と同じように、「罪を赦せるのは神だけだ」という社会常識に捕らえられています。ですから、イエスは神の子だから、この人の罪を赦すことができたのだ、と解釈しています。しかし「イエスは神の子である」という告白は、イエスが殺害された後に設立されたキリスト教会の告白です。自分は神と同じ権威を持つ神の子だ、などとイエス自身は自己理解していません。
【ぼくたちは】
「罪を赦すことができるのは神だけだ」という当時の常識に、正面から対立するために、イエスは病人に対して「あなたの罪は赦される」と言ったんです。イエスは人間として語ったんです。
罪人を認定して奴隷状態に陥れるのは人間ですから、罪の赦しを宣言し、人を罪から解放できるのも人間です。イエスは神を登場させることなしに、人間として宣言したんです。イエスの宣言は、「罪を赦すことができるのは神だけだ」という常識が嘘であることを示したんです。神を騙(かた)る人の言葉は根拠のない詐欺師の言葉です。そのような「うその常識」を払い除けることによってイエスは病人を癒したはずです。
そうだとすれば、イエスのようにぼくたちも、うその常識を払い除けることによって自分を、そしてお互いを癒しましょう。