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「敗走者の友」20220424

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「敗走者の友」20220424

聖書 ルカ 二十四三十五

 

 先週は復活祭でした。世界中の教会が「イエス様は復活なさって弟子たちに姿を顕してくださったのです」と騒いでいる中で、ぼくは「殺されたイエスは個人として生き返らなかった」と申しました。

 まともなことを言う牧師もいるもんだと思ってくださった方もいると思います。一方、キリスト教信者の多くは、とんでもない牧師もいるもんだ悪霊に取り憑かれているに違いない、とお思いになったことでしょう。しかしぼくは悪霊に取り憑かれている訳じゃありません。また根拠のない話をしているのでもありません。

 少なくともマルコ福音書が描いている復活根拠にして話しております。マルコによれば復活とは、大切な人が理不尽に殺されたという事件では終わってしまわない。殺された人がまるで生き返っ活動を再開したかのように思えるような出来事が、別のによって始められている」ということです。弱い民衆に対して生殺与奪(せいさつよだつ・思うがままに与えたり奪ったりする)の権力を持つ人(たとえばプーチャンのような人)が、自分の気に入らない人をどんなに殺しても、入れ替わり立ち替わり別の人が興されてくるのだとマルコは言っております。

 このようなことが現実に起こると、絶大な権力者も恐れます。イエスの活動の噂を耳にしたヘロデが、「あれは、わしが首を刎ねたヨハネが生き返ったのだ」と言った、とマルコが書いているように、事件の当事者が一番怖がることが復活だと思います。

 そんなことが終わることなく続いていくというのが永遠の命だと思いますがそこまで言うと混乱する人がいると思いますので、匂わすだけにしておきますが、とにかく、別の人が起こされてくるというのがマルコの伝えたい復活です。

 

【マルコの最後は開かれている】

 聖書をよく読んでおられる熱心な信者ならマルコ福音書にも復活のイエス姿を顕す記事がある、とおっしゃるでしょう。でも勘違いです。

 マルコ福音書は十六章八節で終わっています。九節以降は誰かが付け足したんです。マルコ福音書にも復活のイエスが出てきてほしいとか出てくるはずだと思った人が、他の福音書から抜粋した文章を付け加えたんでしょう。しかし、これは完全に蛇足で。殺されたイエスが姿を見せたのでは、マルコの意図が台無しになります。とにかく、元来のマルコ福音書は八節で終わりです。中途半端に終わってしまっているのはおかしい、と思う方もいるでしょうが、マルコは、ここで文章を書き終えているのですが、マルコはここで福音書を終わらせたつもりはないんです。これで終わりというんじゃなくて、ここまで読んできた読者にこの続きを任せているんです。

 殺されたはずのイエスが、そのままの姿を顕したりすれば、イエスの物語として完結してしまいます。そんな物語なら「あらそうなの。そんなことがあったのね」という受け取り方で、終わってしまます。そうなればただの昔話や神話です。しかしマルコはそんなふうに福音書を終わらせるつもりはなかったんです。

 イエスが、「ヨハネが生き返ったんだ」と言われたように、あなたが「イエスが生き返ったんだ」と言われるようになってみないか、若い天使の口を通してマルコはあなたに語りかけているのす。つまり、福音書の終わりをぼくたちに開いているのがマルコ福音書です。だから、殺されたイエス個人を生き返らせたりしません。ここが一番信頼できるところです。

 

【敗走者に付き合う】

 今日の説教のために読んでもらった箇所はマルコではありませんが、独立して伝えられていた物語でしょう。復活祭の一週間後にはやはりこの物語を話したくなるのです。なぜなら、この物語は、イエスの復活物語の一週間後に起こった出来事ということになっているからです。

 弟子二人を中心に物語が展開していきますが勇敢な弟子でも有名な弟子でもありません。「敗走者の友」だなんて変な説教題を付けました。「敗走者」というのは戦いに敗れて逃げ走る人のことです。エルサレムを逃げ出した弟子の物語であることが興味深いです。

 逃げる途中の弟子たちに復活のイエスが話しかけてきたという設定になっておりますが、弟子たちは話している相手がイエスだと気づいていないのも滑稽ですし、イエスだと気づいた途端に見えなくなったという表現も巧みです。イエスがしっかり姿を現したというんじゃないところが好きです。

 

同じ方向に歩くだけ

 イエスが殺されてから一週間ほど潜んでいた弟子たちの二人が動き出しました。と言っても、エルサレムから逃げ出しただけです。

 イエスのお供をしていた頃はそれなりに頑張っていたのかもしれません。しかしイエス亡き今となっては、全く何も手につかなくて、故郷にでも帰るつもりだったんでしょう。このように打ちひしがれているに、何と声をかけてあげればいいんでしょう。闇雲に「頑張れ」って励ます人が多いですけれども危険な行為です。

 頑張れっ」と鼓舞されなくても「頑張ればいいんだろうなあ」と誰でも判っているはずです。でも頑張れないがぼくらの現実の姿です。あるていど頑張れも続かないんです。疲れて頑張れなくなるんです。そんな人を捨てるのが今の社会です。面倒みようと思っていた社会も疲れて頑張れなくなるんでしょうれが現実です。どうしょうもありません。そんなときに何ができるでしょう。

 今日の話では、意気銷沈(いきしょうちん)してエルサレムから逃げ出した弟子二人に付き添って歩いてくれる人が顕れます。何か手助けしてくれるわけでもないんですが、とにかく時間も気にせず、話し相手になってくれるんです。日暮れになってもまだ話し足りないので一緒に宿を取ってもらうことにしました。

 夕食の席で弟子たちの話を聞いてくれた人が、感謝の祈りを唱えて、パンを裂いて渡してくれました。その仕草を見た瞬間に、弟子の目にイエスの姿が浮かび上がりました。しかしすぐにイエスの姿は見えなくなったと言います。たぶん、パンを割く互いの姿がパンを割くイエスの姿に重なったのだと思います。弟子たちは互いに語り合い聴き合い、互いの仕草を見てイエスを感じたんでしょう。

 すぐに二人はパンを頬張(ほおば)りながらエルサレムに戻る旅支度を始めたことでしょう。「頑張れ」って励まさずに、ただ同じ方向に歩いて話を聴いてくれる人がいただけで二人は、エルサレムに戻ることができるほど元気になったという、とても心が温まる話です。

 

【ぼくたちは】

 現場を捨てて逃げている時に、同じ方向に歩いて、取り止めのない話を聴いてくれる人が、あなたにはいますか。疲れた体を癒すためにパンを裂いて渡してくれ人が、あなたにはいますか。

 まるで生前のイエスがなさったようなことができれば、それだけで互いに元気になれます。

 このような形で復活のイエスの姿をお互いの姿に見ることができれば、あなたも立派に復活の体現者になれます

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