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「勝手な法解釈で人を殺させない」20220227

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「勝手な法解釈で人を殺させない」20220227

聖書 マルコ  一節~ 

 

 またもやイエスはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に入っていきましたこの時点のイエスはすでにユダヤ教の教えを拒否していましたので、ユダヤ教徒として礼拝するために会堂に行ったんじゃないでしょう。会堂は民衆を思想教育(宗教教育)する施設ですから、ユダヤ教陣営の最前線施設に、イエスはわざわざ出けたと考えたほうがいいでしょう。

 

【律法専門家はイエスを罪人にしようとした】

 イエス一行が移動中に、麦畑の穂を摘み食いしていたことさえ見逃さなかったぐらいですから、敵対視されていることをイエスは重々承知してました。そうでありながら会堂に入ったのです会堂に居た宗教家たちイエスの一挙手一投足を見守っていました。

 その会堂の中には、まるで仕組まれたかのようなタイミングで片手の萎(な)えた人がいたのだそうです。

 働いてはならないことになっている安息日であっても、きっとイエスは手の萎えた男を癒(いや)すだろうと考えた宗教家たちは、その現場を押さえて、イエスを律法違反の罪で訴えるつもりであったようです

 会堂にいた宗教家たちのそんな魂胆を承知の上で、イエスは手の萎えた人に「(隅に隠れていないで)真ん中に出てきなさい」と呼びかけました。こそこそ隠れてする気持ちはイエスにありません。イエスは堂々と勝負する意気込みみんなの注目が集まる所に手の萎えた男を呼び出したのです。

 

【律法の本質に気づかせようとしたイエス】

 イエスは癒しをすぐにわず、この出来事に注目している人々に「さて、安息日に律法で許されていることは、善を行うことか、悪を行うことか。いのちを救うことか、殺すことかと問いかけました。ぼくはイエスの問いがズレている感じたんですが、それは、イエス問いかけ意味を理解していなかったからです。

 イエスがこんな問いを投げかけたのは、まずは律法が定められた目的を人々に考えてほしかったからでしょう。なにせ、宗教の専門家は、何をすることが仕事になるかなど具体的に一つ一つ検討していた人たちです。そんなこと感(かま)けていたから律法が定められた目的を見失ってしまっていたのでしょうだから律法制定の根本精神にもう一度戻ってほしいという希望を託して、イエスはこの問いを投げかけたのだと思います。

 

【専門家たちは黙っていた】

 イエスの問いかけを受けた人々言葉を失っていることから判りますように、律法の専門家たちもしは反応しています

 律法の専門家たちは頭の中でいろいろ考えたというよりも、イエスの問いに対する答え知っていたはずです。知っていたにもかかわらず、何も言わず黙っていました。そんなことですから議論にもなりませんでした宗教家や専門家たちは、判っていても、全体の流れには逆らないという姿勢をとり続けたです。

 まさに今、世界で起こっている現象と同じです。良い悪いに関係なく、力の強いものに屈することが当たり前になっているので、善くいことだという判断がついていても、それを口に出すことができない人がほとんどなのです。学校でのイジメ事件と世界状況は同じ構造です。大国の暴挙を許しているかぎり、社会構造の中からイジメをなくすことなどできるわけありません。イエスの時代にもそんなことは歴然として存在していました。

 

【イエスは手の萎えた人の仲間になった】

 イエスは怒って周りを見回しました。このような社会状況をイエスは見過ごせませんでした。なぜなら、イエス自身が生まれや育ちの故に差別される苦しみを知っていたからです。差別されることは人間扱いされないことです。生活している場で、一般人として扱われないことです。

 理由はどうであれ、たとえば寄留の外国人異質人として扱われるとか、身分の差によって、一般人の権利が与えられません病人や障害者も差別の対象になっていました当時は身分を証明するパスポート個人番号カードも健康保険証もありませんでしたので、イエスも生まれ故郷を捨てれば、差別に関係ず、当時の社会の一般人に同化してまうことができたはずです。けれども、イエスは差別されている人を見捨てて、その場を逃げ出すことがでない人でしたイエスは非難攻撃されることを承知の上で、「さて、安息日に律法で許されていることは、善を行うことか、悪を行うことか。いのちを救うことか、殺すことか」と律法の精神を問いかけました。律法の専門家たちから何の返答もないことに呆れたイエスは、自分の信じていることを実行しました。

 何がどうなったのか判りませんが、イエスが「手を伸ばしなさい」とおっしゃると男の手は元通りになったと言います。そんなことができるのなら誰の病気も治してほしいと思います。けれども、そんなことができる人はいません。ただし、この出来事の中で起こったことで、のぼくたちにもできることはあるはずです。

 イエスは、人間扱いされていなかった男の仲間になりました。もとよりイエス自身が差別されて一般人扱いされていなかったのですから、この男がイエスの仲間になったところで、一般人の仲間入りができたわけではありません。しかし、会堂の群衆の中でただ一人差別されていたこの男にイエスという仲間ができたことは周りで感じる以上に、男にとって大きな出来事であったに違いありません。この男の仲間になるために、この男が受けていた差別以上の迫害をイエスは受けることになるにもかかわらず、イエスはこの男の仲間になったからです

 考えてみれば、律法の専門家たちは律法を大切にしてません。律法の言葉の具体的な解釈を大切にしているだけです。もし、律法の精神を大切にしていたならば、安息日に癒しを実施したイエスに何の問題も感じかったでしょう。しかし、専門家たちは、イエスの振る舞いを律法違反の罪だと断定しました。これは自分に降りかかる批判を避けるためです。すから専門家たちが本当に大切にしていたのは、律法ではなくて、組織のしきたりや世間体なです。

 

【ぼくたちは】

 ファリサイ派とヘロデ派がイエスを殺すために共謀したことから判るように、権力者が法律を勝手に解釈する生き方は人を救いません。人を殺します。彼らは、安息日に許されているのは生かすことか殺すことかと問うたイエスを、文字通り安息日に殺すことにしたのです。これが、いわゆる知識や権力をもった専門家することです。彼らは自分のために律法の言葉を利用する専門家なのです。

 人を差別し人間扱いしない社会の中で、ぼくたちにできることは、人間扱いされていない人に手を差し伸べたイエスのように、その人の仲間になると表明することです。これなら奇跡を起こせないぼくらでもできます。まずそうしようと決断することから始めこれが殺し合いを止めために人間がつくった律法を大切にする生き方です。

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