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「イエスの系図はわざと破られている」20191117

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「イエスの系図はわざと破られている」2019年11月17日

 

聖書 マタイ 一章五節

 

 先週は、イスラエル十二部族の族長の一人であるユダが、長男の嫁タマルとの間に後継をもうけた、という出来事を取り上げました。いわゆる、平凡な関係じゃないということですね。

 今日は、系図で二番目に登場するラハブという名の女について取り上げます。マタイ福音書には、「サルモンはラハブによってボアズを・・・」(一章五節)と書かれています。

 先週と同じように、これも、読み過ごしてしまいそうな記事です。しかし、旧約聖書ヨシュア記に登場するラハブの記事を見ますと、相当に複雑な事情を背負った女であったことが判ります。

 先週紹介したタマルは、族長ユダの目を晦(くら)ますために、娼婦に変装してユダに近づいた女でした。けれども、今日の主人公ラハブは、れっきとした娼婦でした。

 日本では城下町というのがありまして、領主の住む城だけが石垣で囲まれています。庶民は城壁の外に住んでいるというのが一般的です。しかし、イスラエル民族が攻め込んで行った土地では、町全体が城壁で囲まれておりました。なぜなら、他国の侵略を受けると、その土地に住んでいる人々全員が殺戮の対象になったからです。

 娼婦の館といえども、町外れじゃなくて、城壁の内側にあったようです。遊女ラハブは、立派な城壁に囲まれたエリコという町に住んでいました。

 ただし、町の中心部じゃなくて、城壁の端、城壁の上に住まわされていたようです。

 遊女ラハブが登場するヨシュア記のヨシュアという人物は、イスラエル民族をエジプトから脱出させたモーセの後継者です。イスラエル民族は、ヨシュアの指導の下で神が約束して下さったと言われている土地カナンに攻め込んでいくことになります。

 

【なんで】

 ちょっとおかしいんとちゃいますか。エジプト脱出を指導したモーセが、そのまま約束の土地に入って行けばいいのに、なんで後継者が必要だったの。なんで、と感じませんか。

 実は、イスラエル民族は、エジプトを脱出後、すぐにはカナンの土地に入れなくて、四十年間も荒野をさまよったことになっているんです。

 エジプトから脱出させて下さった神様を疑ったり、命令に逆らってばかりいた人々を約束の土地に入れることはできない、と神様が言ったそうです。

 いやいやいや、冷静に考えてみれば、メチャメチャな話ですよ。目標に向かって登らせといて、途中でハシゴを外すようなことです。脱出してきたモーセを含めた一世たちが死に絶えて、二世の代になるまでは約束の土地に入れない、というんですから、意地悪な神様ですよね。イジメとしか思えません。

 約束の土地を目指して、希望を抱いてエジプトから脱出してきた民全員を、約束の土地に入れない、ということですよ。騙しやがな、と感じます。

 その結果、脱出してきた一世が死に絶えるまでの四十年間もイスラエル民族は荒野をさまよわなければならなかった、なんて、ひどすぎる話です。

 「神様の裁きは厳しいんだ」とか言いますけれども、神様って、度量の小さい、やらしい性格やなあ、としか思えません。

 とにかく、モーセの付き人であったヨシュアが後継者となって、イスラエルの二世たちを連れて、約束の土地カナンに入っていくことになります。

 しかし、神様が与えると約束して下さった土地だというのに、そこにはすでに他の民族が住んでいるんです。だから、攻め込んで自分で奪い取らなきゃならないんです。ただ入って行けばいいんじゃなくて、戦争して奪い取れっていうことですから、ちょっとひどすぎると思いませんか。これじゃ約束の土地なんて言えるもんじゃないでしょう。やっぱり騙されたようにしか思えません。

 

【城壁都市エリコ】

 騙されたにしろ、なんにしろ、ここまで来たんですから、いまさら荒野に逆戻りすることもできません。目の前の土地に入って行くしかない訳ですが、そんなヨシュアたちの前に、まず立ちはだかっていたのが、エリコという城壁都市だったわけです。

 とりあえず、ヨシュアは、攻め落とさなきゃならない城壁都市エリコの様子を探らせるために、二人の斥候(せっこう・敵情を探るためにひそかに差し向ける少人数の兵)を出しました。エリコに入った二人は、まず娼婦の家に入りました。久しぶりに遊びに行った、というんじゃありませんよ。

 よそ者が見知らぬ都市に来て、娼婦の家に入るのが一番怪しまれない、と思ったからです。しかも町の様子を知るにはもってこいの場所だからです。

 ところが、敵もさる者。イスラエル民族の噂を聞き、警戒を強めていたエリコの王は、見知らぬ旅人が二人、エリコに入ったという情報を聞きつけ、エリコの様子を探りに来たイスラエル人だと察知して、娼婦ラハブの館(やかた)に捜索隊を送りました。

 このとき、ラハブはイスラエル人のスパイを捜索隊に突き出さず、二人の斥候を匿(かくま)った上に、密かに逃がしました。(ヨシュア記二章一節~二十四節)

 その際、見返りとして、エリコが陥落する折には、家族、親戚、財産の安全を保障してくれるように、とラハブは密約を交わしたんです。(ヨシュア六章二十二節~二十五節)

 城壁都市エリコが陥落した時に、先の斥候が娼婦ラハブと交わした約束を守ったヨシュアは、ラハブの一族を、戦火から救い出しました。ラハブ一族は娼婦ラハブの機転によって救われたんです

 このラハブは、新約聖書のヘブル書やヤコブ書では、「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。」(ヘブライ人への手紙十一章三十一節)「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別のみちから送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。」(ヤコブの手紙二章二十五節)などと持ち上げられていますけれども、ヨシュア記に記されている娼婦ラハブの物語を読む限りは、娼婦であったラハブが、信仰深い人であったとか、信仰的な行いをした人であった、とはとても思えません。

 

【ラハブはエリコの裏切り者】

 ラハブの取った行動は、エリコを攻めるイスラエルにとっては、好都合でしたけれども、エリコの住民にとっては、単なる裏切りです。

 ラハブは、我が身の安全を守るために画策して、エリコが陥落した時のために、布石を打っておいただけです。一族の命の保障だけを約束させたことでも判るように、エリコの町や住民に対しても、ラハブは未練がなかったように思います。

 斥候たちとの約束が守られる保証はありませんが、エリコの町の誰にも知られずに、イスラエルの斥候たちを逃がしたということは、エリコが陥落してもしなくても、どちらにしても、自分たち一族の命が助かるように画策した、ということです。ラハブは、舞い込んできた危機的状況を、逆手にとって、自分たち一族が助かる可能性に賭けて、画策をした女です。かなりの策士(さくし)であったと言えるでしょう。決して、信仰のどうのという女じゃありません。それほどの女を、マタイが系図の中に登場させているんですから、本当に興味深く感じます。

 

【イエスを身ごもったマリアの背景に】

 マタイ福音書が描いたイエスの系図を読んで、多くの人は、ダビデ王に繋がる由緒ある血統からイエスはお生まれになった、と勝手に解釈していますけれども、ぜんぜん的を射てません。

 調べれば調べるほど、へんな話じゃありませんか。

 美しくもかっこよくもありません。かっこよく描きたければ、もっと違う書き方をしたはずです。だから、なぜ悍(おぞま)しいことを連想してしまうような名前をマタイは系図の中に入れたのか、まったく謎です。しかし、謎だからこそ、この謎を解くことが重要だと思います。

 

【マタイが系図を書いた訳】

 マタイが、このような系図を書かなければならなかったのは、教会を取り巻く社会が、出自の判らないイエスを避難していたからだろう、とぼくは想像してみました。

 出自が判らない事で、イエスを貶(おとし)めようとする周りの社会に向けて反論しようとしたマタイ。しかし、反論したくても、論敵たちを打ち負かせるほど、イエスについての情報をマタイは持っていなかったんでしょう。

 イエスの父が誰であるか、ということをマタイも知りません。本当に誰も知らなかったんでしょう。正面切って論戦を張れなかったマタイは、別の方法を考え出したんじゃないかと思います。それが系図です。

 そこで、マタイは、多くの人が知っているはずの旧約聖書の系図に、訳ありの女たちの名前を挿入することによって、物語を思い出させ、先祖の系図にも、言うに言われぬ様々な実情があったことを示したんじゃないでしょうか。

 こんな系図を示したのは、イエスの系図は素晴らしい、ということを示そうとしたんじゃなくて、逆に、イエスの福音に血統なんか必要ない、ということをマタイは強調したんだと解釈しました。

 イエスの男系をたどろうと思えば、マリアの夫ヨセフの家系をたどるしかないんですけれども、ヨセフにたどり着く系図の中にも、このような女がいることをマタイは伝えておきたかったんでしょう。

 また、たとえマリアの婚約者ヨセフが、いくら立派な系図につながっていたとしても、ヨセフがイエスの父でないのであれば、そんな家系図は何の意味もありません。

 イエスはマリアだけの子で、ヨセフが父じゃないと言った瞬間に、それまでの系図と何のつながりも無くなってしまうことぐらい、マタイが気づかないはずありません。気づかずに書いてしまったんだろう、と考えるのはあまりにも早計です。マタイは、深い意味を込めて、この系図を書いたに違いない、と今回初めて感じました。

 アブラハムからダビデに続く系図の果てにイエスが生まれたんだと、この系図を用いて説明する人が多いですけれども、それはまったく見当違いです。

 

【ぼくたちは】

 イエスの家系なんてまったく判りません。そしてイエスの誕生にも、口に表せない事情があるはずです。しかし、そんなことが、イエスのお伝えになった福音に悪影響を及ぼすことはまったくありません。

 悍(おぞま)しい物語もなんのその、そんな出来事も乗り越えて、現在の教会は立っています。そんな事実があったことも判るように、マタイは、あえて破れのある系図を書いたんだと思います。

 イエスの系図が素晴らしい、などと言っているようでは、大したことのない事大主義の教会です。

 大切なのは、イエスが伝えて下さった福音だけです。ぼくたちは、他のことはどうでもいいんだ、と言い切れる教会であり続けましょう。

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