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「差別の裏に差別あり」20230611
「差別の裏に差別あり20230611
聖書 ヨハネ福音書 四章一節〜十五節
国会では議論を十分に尽くさないままで重大な決議をするようです。中身が分からない制度を作っても、安心できる生活を制度が邪魔することも知っておくべきです。差別してはいけない、と耳ざわりの良い言葉を議論する国会議員たちが、互いに差別しあっている現状を見れば、この法案に毒があることは確かです。優しい言葉の影に毒があるものです。
さて、国会とは異なって、西野バプテスト教会では、木曜日に聖書楽講座(せいしょがくこうざ)というプログラムの中でたくさん楽しく話し合います。聖書を学ぶと言うのはおこがましい(分不相応)ですし、学ぶのは嫌いなので、「学」という字を使わないで「楽(がく)」を使っているんです。この時間には、日曜日の説教原稿のプリントをそれぞれで黙読してもらってから、自由に意見を出して討論しますので、日曜礼拝よりも断然楽しいです。日曜日にはなかなか笑ってくれないみなさんが、木曜日には大笑いします。
【単調な言葉はたいくつです】
日曜日の礼拝(れいはい)では、説教を始める前に、讃美歌を歌ってから、説教のために選んだ聖書の箇所を司会者に読んでいただきます。木曜日も讃美歌の後で聖書朗読してもらいます。ですから、先週はヨハネ福音書四章一節〜十五節の朗読を、二度聴かせてもらいました。そして、二度とも違和感を覚えました。違和感はどこから来るのかと考えて、聖書の言葉遣いが実に単調であることに気づきました。楽しい物語に聞こえて来ないのは、聖書に印刷されている言葉そのものが単調だからだったのです。
司会者は聖書に印刷されている文字を正確に読んでくださっていたので、まったく司会者の責任ではありません。
【横道】
ここで、ちょっと横道にそれますけれども、ご存知だったでしょうか。
先月(五月三十日)の参院経済産業委員会で立憲民主党の田島麻衣子参議院議員が岸田総理に総理の息子の件で質問した際に「住居手当、通勤手当、期末手当、退職手当を、ご長男は受け取らない、あるいは返納なさるおつもりですか」と尋ねたかったようなのですが、この手当を「てとう」と読んでいたのです。
質問内容があらかじめ文書で首相に渡っているので、質問の意図は首相に伝わったのですが、もしも口頭質問だけだったならば、首相は当惑(とうわく)したでしょうね。
【綺麗な表現に嘘】
さて、話を戻します。司会者はこの国会議員のような間違いを犯していません。ですから、聖書朗読を聴いていたぼくが違和感を覚えた責任は、違和感を覚えるような文章を聖書に印刷した翻訳者や翻訳委員会にあるのです。
ヨハネ福音書四章では、正午頃にサマリアのシカルという町の井戸端で、イエス一人が休んでいた場面に、サマリアの女が水汲みに現れたという設定です。ヨハネの物語の展開が上手なので、読者は女とイエスの対話に自然に引き入れられます。ところが、物語が進んで行くうちに疑問が湧いて来て、二人の対話が頭に入ってきません。聖書翻訳の文章表現が下手だから楽しめなかったのです。
ヨハネがたくみに舞台を設定してくれているんですから、これを上手く利用して聖書を「学」的にではなく「楽」的に読んでみることにしましょう。以下のような表現はいかがでしょうか。
「イエスは『水を飲ませてください』と言われた(言った)」と訳されていますが、こんな言い方をしたはずありません。「水を飲ませてくれ」程度です。イエスも上品じゃないし差別意識もあったはずです。これに対する女の言葉は「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいとたのむのですか」と翻訳されています。これも状況に則さない表現です。なぜなら「ユダヤ人とサマリア人は交際しないことになっていた」とわざわざ断り書きがあるほどですから、こんな丁寧(ていねい)な言い方をするわけありません。「ユダヤ人のあんたがサマリアの女のあたいに、水を飲ませてくれってかい」てなもんです。
夫を五人ほど替えている女と、いろんな状況の人々を相手にしてきたイエスとの対話ですもの、お上品な会話じゃなくて、掛け合い漫才を思い浮かべた方が理解しやすいと思います。
イエス・・・「お前ね、頼んだのが誰だか判ったら、お前の方から、頼んで、生きた水を飲ませてもらったことだろうよ」
すると女は「主よ・・・」と呼びかけたなんて書かれておりますが、これも変です。確かに「主」と言う言葉が書かれているので、イエス・キリストを「神の子であり主である」と思い込んでいる信者は、女がかしこまって「主よ」とよびかけても、何の違和感も持たないでしょう。しかし、宗教的にも民族的にも敵対心を抱いている女が、初対面の敵対するユダヤの男に、尊敬心をもって「主よ」だなんて言うはずありません。常識的に考えて、この女がイエスに敬語を使うことなどあり得ません。
聖書翻訳をなさる学者は敬虔なクリスチャンが多いからでしょう。最初からイエスを神の子であると信じ込んでいる人は、イエスに語りかけられる言葉を全て敬語にしてしまうのでしょう。それにしても、イエスが裁判にかけられている時でさえ、敬語で問いかけられているように翻訳しているのは行き過ぎです。こんなことだから実際の状況が伝わってきません。臨場感を持てないのも無理ないのです。
ですから女の語りかけの言葉は「主よ・・・」ではなくて、「だんなさん・・・」程度に訳しておくのが適当です。「だんなさん、あんた水汲みの道具も持っちゃいないし、この井戸は深いんだよ。あんたあたいたちの父ヤコブよりも偉いつもりかい」てなもんです。
するとイエスは「こんな水を飲んでもすぐに喉が渇くけど、俺が与える水は、渇くどころか、泉となって永遠の命に至るみずが湧き出るんじゃ」と嘯いて(うそぶいて・大ぼらを吹く)みせます。イエスとの会話に乗って来た女は「そんな水があるんなら、渇かないように、汲みに来なくてもいいように、その水をあたいにおくれよ」と答えます。こんなふうに、女とイエスの掛け合いは軽妙に進んだはずです。
実際にイエスと女の掛け合いがあったとすれば、堅苦しくない日常に起こり得る会話だったはずです。当たり前のこととして、常識的に楽しく聖書を読んだ方が真実に近いでしょう。
イエスはサマリアの女を差別なさらなかったと教えている翻訳者が敬語を使い分けているのはイエスと女を差別している証拠です。
【ぼくたちは】
教え込まれたことが先入観になって、生真面目に信じ込んでいるつもりが差別に巻き込まれて、事実を見逃している可能性が大きいのです。間違わないために、ちょっと立ち止まって、常識的に自分の感性で情報を集めて深く考えるようにしましょう。
差別をやめろ、戦争をやめろ、と言っている連中が、金を儲けるために、逆の立場から差別や戦争を仕掛けている可能性が大です。受けの良いやさしい言葉で語りかけられて気を許して騙されないように気をつけて下さい。