説教の題名を押して下さい
「有給休暇のような安息日」20220220
「有給休暇のような安息日」20220220
聖書 マルコ 二章二十三節~二十八節
ぼくたちの生活は、善かれ悪しかれ自覚のないままに多くの慣習や風習に影響されているものです。
伝統にでも何にでも素直に従うことが好きなお方がおられるかもしれません。しかし、ほとんどの人は無理して伝統や風習や慣習に合わせているように感じます。無理して従おうとするから、疲れていても休暇を取らず疲れ切ってしまう人が多いんだろうと考えています。
【安息日とは】
さて、今日はマルコによる福音書二章二十三節〜二十八節の物語を紹介します。小見出しは「安息日(あんそくび)に麦の穂を摘む」となっておりますので、話題の中心は安息日の取り扱いについてであることが判ります。
安息日の規定なんて聞くと楽しそうじゃありませんが、労働者の「有給休暇」についてだと聞けば興味が湧くでしょう。簡単に説明すれば「この日を特別にしなさい。どんな仕事でもいいから六日間働いて、七日目はどんな仕事もしちゃだめだよ」ということです。理由づけが楽しいですよ。「神様でも七日目に休んだんだから」と書いてあるんです。なんともオチャメじゃないですか。ハッキリ言ってこれだけのことなんですが、聖書の言葉を読むと難しく感じます。安息日に関する規定は、ユダヤ教律法の土台になったモーセの十戒に記録されております。とにかく読んでみますので、聞いて下さい。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と出エジプト記二十章八節〜十一節に書かれております。
このように、聖書の言葉は難しく聞こえます。しかし、さきほど言いましたよう一週間に一日は休みなさいという簡単なことなんです。
簡単な決め事なんですが、世の中には四角ばった考え方をする人がいるもんです。神様の命令なんだから、ぜったい言葉通りに従わないといけない、と考える人がけっこういるもんです。
【イエスはイチャモンつけられた】
ある安息日のこと、イエス一行が麦畑を通っているときに、よほどお腹が空いていたんでしょう。仲間たちが歩きながら麦の穂を摘んで食べたんだそうです。これを見つけた熱心なユダヤ教徒たちは「君の弟子たちはなぜ安息日にしてはならないことをするのか」とイエスにくってかかったのです。
イエス一行の誰も安息日規定に違反しているつもりはありませんから、何を言われているのか想像もつかなかったと思います。
麦の穂を摘んで、つまみ食いしながら歩いていたことを、熱心なユダヤ教徒たちは、なぜか仕事をしたと捉えたようなんです。
歩きながら麦の穂をむしって食べることぐらい、だれも仕事だなんて考えません。なのにこんなことを問題視するなんて、専門バカにしかできないことです。というかイエスは言いがかりをつけられたとしか思えません。
そこでイエスは「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから安息日の主は人(人の子)なのだ」と応えています。また「空腹だった時にダビデと部下が祭司しか食べることが許されていないお供えのパンを食べさせてもらったことを読んだことあるでしょう」という言葉も書かれていますが、ハッキリ言って話題の中心がずれているので飛ばします。
ファリサイ派は安息日の行動制限を問題にしているんですが、安息日の意味を伝えたイエスは、言われる筋合いは何もない、という態度をとって、「君たちは安息日の本来的な意味が判っていないんだね」と指摘しただけです。なにしろ、両者の問題意識は完全に異なっています。すれ違っているので議論にもなりません。イエスはそれ以上真剣に取り合わなかったように思います。
この後、熱心なユダヤ教徒たちがどのように反応したのか何もわかりません。たぶん、イエスが言った意味を何も理解できなかったんだろうと思います。
律法の言葉をどのように運営するかに気を取られている人々は、この律法が作られた意味や背景を考えるよりも、「どんな仕事もしてはならない」という律法の言葉を分解し、何が「仕事」になるのかと考えるのにいそがしかったんでしょう。
いわゆる「麦刈り」ならば誰でも仕事だと判ります。しかし何でも徹底しなければならないと考えた人々は、歩きながら麦を摘んで手揉みして口に入れたイエス一行を、安息日にしてはならない仕事をした、と解釈してイエスを責めただけです。
【安息日は労働者の休日】
そもそも安息日というのは、神様が命令したから仕事をしちゃいけないというような日じゃありません。どんな仕事をする人も「一週間に一日は休みなさい」という法律です。神の命令の形をとっておりますけれども、ずっと働かされ続けてきた人たちが、永い歴史の中で学んできた人間の知恵が生んだ言葉です。
休まずに働き続けたほうがたくさんの結果を出せると凡人は思うかもしれません。けれども、現実はそんなもんじゃありません。休まずに働くと疲れが溜まって病気になったりします。休みを入れた方が、結果的に仕事の効率が上がることは明確です。だから、誰でも、どんな仕事をしている人も一週間に一日は休めよ、というお勧めなのです。これが律法という法律に明記されて命令になっているのには意味があります。
すなわち、命令にしないと、無視する人がいたからです。子どもや奴隷や家畜も休ませろって言わなければ、家の主人たちは自分だけ休んでいたからでしょう。働かされている者たちを休ませなきゃならない、ということに重点があるのです。
それだけであるならば、雇用主にだけ命令したらいいようなものですが、そうしないで、全員に命令したのは、そうしなければ、気が利く労働者が雇い主に忖度(そんたく・他人の気持ちをおしはかる)して、サービス労働するかもしれないからです。誰にもそんな無理をさせないために、誰も働いてはいけないという命令にしたんでしょう。よく練り上げられた法律だと思います。これほどよくできた法律でありましても、運用する人が意味を考えない馬鹿でありますと、問題を引き起こしてしまいます。それが今日の物語の顛末(てんまつ)です。
【ぼくたちは】
法律なんてものは意味を考えて施行しなければなりません。法を生かすも殺すも人次第です。人を守るために法があるのであって、法を守るために人があるのではない。これはいつの時代にも重要な法の基本概念です。これを理解できない中途半端な人を法の番人にしてはいけません。ぼくたちは自分自身を幸せにするために、もっと真剣に法の番人を選びましょう。