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「経験したことのない福音」20220724
「経験したことのない福音」20220724
聖書 ヨハネによる福音書八章一節〜十一節
近頃のニュースでは、五十年に一度、百年に一度の災害などという言い方が流行っております。深い意図があるんでしょう。不思議な言い方です。ぼくの場合は年に何度も週報の聖書箇所を、書き間違えます。しかし、今日は間違いではありません。先週と同じ聖書の箇所を選んだのであります。
さて、キリスト教会にも数百年に一度の危機が訪れているように思います。それは宗教の立場が危うくなってきたからです。
日本人の六十五パーセントは死んだら何も無いと思っているという調査報告がある、と友人が教えてくれました。どんな調査か判りませんが、天国や地獄を語る宗教の発展が望めないのだそうです。とは言うものの、葬儀の席で「天国で会いましょう。先に行って待っていてください」というコメントが多いのには呆れます。天国があると仮定しても、二人とも行けると思っているのは能転気です。ぼくならば、地獄で会いましょうと言います。この方が少し現実的です。
イエスは、天国で会おうなどとは申しません。現実の社会で、除け者にされてきた人を、現実の仲間として受け入れました。社会から拒否されていた人には経験したことのない体験だったと思います。現実離れした、すなわち、まるで天国にいるような状態に思えたかもしれません。罪を認めないイエスは、罪に関係のない天国を感じさせたのでしょう。だから民衆に好かれました。もちろん、権力者には嫌われました。
伝統を守る宗教が良い効果を持つこともあるでしょう。しかし、生活を規制する厳しい教えや理屈が判らないしきたりに縛られることを民衆は嫌います。
ユダヤ社会に住む民衆は、現代の日本人には理解できないほど多くのしきたりに縛られていました。映像でしか知りませんけれども、今でも中東の生活様式を見ますと、ぼくにはあのような生活は到底できないと判ります。そんなぼくのような、社会の伝統を守らない人や守れない人は、その社会から除け者にされます。このような人々が「罪人」と呼ばれたようです。
宗教社会の決め事に服従するに際して百点満点を取れる人なんかいません。大なり小なり欠点が出るものです。
少しの違反や欠点ならば、比較的軽い罰を受けることで赦されるのですが、慢性的に違反を繰り返す人や、違反の塊(かたまり)のような人は赦されない罪人ということになるのでしょう。
【誰もが罪の自覚を持たされている】
だれから見ても間違いなく罪人であると言えるような、姦通の現場で捕らえられた女がイエスの前に引き出されました。しかしイエスは「自分は罪を犯していないと思う者がまずこの女に石を投げなさい」とおっしゃったのだそうです。するとだれもいなくなったと書かれています。ということは、そこに集まっていた全員に罪の自覚があったということです。
ぼくたち日本人にも、大なり小なり自分にも悪いところがある、という自覚はあります。しかし、ユダヤ教徒ほどに、神の命令に反く明確な罪人であると自覚している人は少ないでしょう。そんな日本人でも災いが起これば自分を責めたりしますから、なおざりにできないのですが、ユダヤ社会においては、全国民が「神に対する罪人である」という自覚を持たされているので、とても厄介(やっかい)です。
【罪人にもランク付け】
神に対する罪にもランク付けがあるようでして、お互いに牽制(けんせい・監視して自由な行動を妨げる)し合うようです。独裁者がいる共産国家のように、神に対する罪の重さを監視し合っていたようです。そんな中で、姦通の女は誰と比べてもダントツの明確な罪人という訳で、格好の餌食にされてイエスの前に連れ出されたのです。自分よりもランクの低い人を見つけて訴えてやろうというのは、明確ないじめです。
そこでイエスは、大なり小なりみんなが感じている罪意識を利用して、いじめを止めさせたのでしょう。けっしてイエスは、お前たち全員が罪人だ、と糾弾(きゅうだん・罪をとがめること)したのではありませんでしたが、自分を恥じた人たちは順次その場を離れていったのです。
ここまでは、いわゆる姦通罪の女とイエスを一対一で向かい合わせるための場面設定です。この物語の著者は、女を一人にしてからイエスの言葉を紹介します。それは、今までに聞いたことのない言葉(経験したことのない福音)でした。「ぼくはあなたに罪を認めない」とイエスは言ったのです。
【最後の言葉は蛇足】
これに続く言葉を読んで、これまでの罪は赦してやる、しかし二度とこんなことをするんじゃないぞ、という意味だと思っている人が多いようですが、そうではありません。イエスは単に「あなたに罪を認めない」と言っただけです。「罪を認めない」と言ったイエスが「これからはもう罪を犯すんじゃないぞ」などと言うはずありません。最後の言葉は、この女を罪人と認識している人でなければ言えません。ですから、罪など認めないイエスの福音を理解できなかった誰かが後に付け足した言葉です。全くの蛇足です。
罪を認めないとおっしゃったイエスの福音を台無しにする危険なことばです。確かに、この蛇足の言葉によって、昔ながらの宗教に刷り込まれた罪理解に引き戻されてしまう人が多いのです。まるでこの物語の最後をしめくくるように置かれているので、この物語が示そうとしていたイエスの福音の全体をひっくり返そうとしているかのようです。それほど危険な言葉です。これは決してイエスの口から出た言葉でないということをしっかり心に留めておいて下さい。
過去の宗教がこの女を罪人であると認めるのに対してイエスは、この女の罪を認めないと言ったのですから、イエスの言葉はユダヤ教が教え込んだ社会秩序もしきたりも認めなかったのです。今までに誰も経験したことのない教えだったのです。そういう意味では百年に一度どころではなくて、数百年に一度聞くことができるかどうかもわからないほどに稀(まれ)な福音だったのです。
全人類が神に対する罪人であるなどというのは宗教が刷り込んだ嘘です。絶体的な神に対する背反の罪など実際にはあり得ないことに気付いたイエスが、罪なんかないという真実の情報を教えたのです。これがイエスの福音です。
イエスはこの福音によって、宗教が罪人に仕立てた女を解放したのです。
【ぼくたちは】
キリスト教という宗教を伝えるのではなくて、ぼくたちは、イエスが伝えたにもかかわらず、何百年も隠されていた福音を伝えなければなりません。この罪の女が解放されるためにはイエスが伝えた福音が必要だったのです。イエスの福音だけが罪を着せられた女を自由にすることができたのです。宗教が教えた罪の縄目から全ての人を解放するために必要なのは、イエスの福音だけです。ぼくたちが必要としているのもイエスが伝えたこの福音です。これさえあれば、宗教のしきたりも作法も不要です。ですからぼくたちは、イエスの福音だけを伝えることに専念することにいたしましょう。