説教の題名を押して下さい
「目から梁'はり)」20211024
「目から梁(はり)」20211024
聖書 マタイによる福音書 七章一節〜六節
今日の題材はルカ福音書とマタイ福音書が取り上げています。マルコ福音書にはありませんので、マタイとルカが持っていてマルコが持っていなかった資料があったということが判ります。しかし、ルカには脚色と挿入が多くて、話がややこしくなっておりますので、この部分の主題をはっきり示しているマタイの箇所をとりあげることにしました。
【ピンと響く言葉が必要】
まず、比較的よく知られている言い回しを紹介したいと思います。しかし、その一文は昔の口語訳聖書の言葉で覚えておられる方にはピンと響かない言葉で新共同訳聖書には出てきますので、ちょっと違和感があったでしょう。ですから口語訳聖書や岩波版聖書の訳に近い言葉で、この有名な一文をまず紹介しましょう。
すなわち「あなたの目から梁(はり)を取り除け、そうすればよく見えるようになって、兄弟の目から塵(ちり)を取り出すことができる」という文章です。
このように聴きますと、すっきりしたんではないでしょうか。
ところで、どういう訳か判りませんけれども今読んでもらった新共同訳聖書では「梁」のことを「丸太」と翻訳しているんです。
テレビで古民家の柱の上で天井を支えている太い横木を見たことがおありでしょう。あれが梁です。丸太という言葉で受けるイメージとは全然ちがいますでしょう。
丸太と言いますと、木の皮を剥(む)いただけの円柱のようなものを想像してしまいます。太くても丸太は丸太です。ログハウスを想像すれば良いんでしょうが、一言で思い浮かべることができるためには「梁」という訳が断然すぐれています。本物の梁を見た若者たちは少ないでしょう。この字の読み方も判らないでしょうから、カナも振って、説明もしますけれど、そういうことが知識として積み上がっていくんです。大きい木だということが判ればいいんだ、などというのでは、ちょっと風情(ふぜい)がないというか、薄っぺらな判断しか出来ません。
近頃問題になっておるようですが、お隣の国、韓国ではハングルと呼ばれる表音文字が主流になっております。それまで使っていた漢字を使わないように誰かが定めたらしいのです。だから新聞もハングルがズラーっとならんでいるのだそうです。そうこうしている内に漢字が読めなくなり、昔からある漢字混じりの文献を読める人が少なくなっているのだそうです。これは文化の大きな損失になっております。
日本語でも片仮名(かたかな)だけで文章を書いたら、むかしの電報文のようになって読み辛くなるのと同じです。
たとえば、「エンマサマノオヤシキニハイルマエニハカミノハシガアリマシテ、イイヒトハオモクテモワタレルケレドモ、ワルイヒトハカルクテモワタレナイ、ハシノハシヲアルイテモハシハオチテシマウトカイイマス。エンマダイオウノヤシキニハオオキナハリガアリマス」などというように、カタカナだけで書いたら読みにくいし聞いても判り辛いでしょう。
「閻魔様のお屋敷に入る前には紙の橋がありまして、善い人は重くても渡れるけれども悪い人は軽くても渡れない、橋の端を歩いても橋は落ちてしまうとか言います。閻魔大王の屋敷には大きな梁があります」と漢字仮名混じりで書いたものの方が断然読みやすいですし、意味も間違いません。
地獄の「ハリノヤマ」は「針の山」と書くから、痛そうなイメージがすぐに伝わるのです。今日の話題の「梁」とは異なるものだと書き分けることが必要です。
これだけ言いましたら、丸太と翻訳することがいかにおかしいか判ってもらえたでしょう。
【イエスはわざと大袈裟(おおげさ)に表現】
さて、イエスの言葉を改めて考えてみますと、すごく大袈裟で極端な表現がなされていることがわかります。ちょっと極端すぎるくらいですが、とにかく、みなさんがなさっていることは、全く不可能なこと、有り得ないことなんだと告発しているんです。
でも、イエスの批判を聞いて「おかしいやないか『他人を裁くな』と言っておきながらイエス自身が裁く人を裁いているやないか」とお感じになるかたもおられるでしょう。
しかし、裁き合う人々を単純に批判しているんじゃありません。お互いに仲間内でも批判し合うことなんて日常茶飯事に起こりうるものです。そういう仲間内のいざこざを起こす人々を批判しているんじゃありません。
【偽善者は誰】
「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け、そうすれば良く見えるようになって、兄弟の目から大鋸屑(おがくず)を取り出すことができる」という言葉の激しさから察しますと、イエスが批判している相手は、同僚に対して、重箱(じゅうばこ)の隅(すみ)を突っつくような嫌味を言っている人を念頭に置いているわけではないことがわかります。「偽善者よ」という語りだしは尋常じゃありません。イエスの話を聴きにきている民衆に語りかけているのではありません。
そうだとすれば、イエスが非難している相手は誰でしょう。他の記事を思い出していただければ判りますとおり、「偽善者」と呼ばれいるのは、律法学者やファリサイ派の人々だと想像できるはずです。
すなわち、公的な立場や律法を利用して、おとなしい庶民を裁き差別し、その心を貶(おとし)めていた律法学者やファリサイ派の人々を、イエスは責めたのだと思います。
重箱の隅を突くようにして他人の欠点を探し出し、「それをわたしが解決してあげましょう」などと言っている輩(やから)に対して、「そんなことを言っている場合じゃないぞ。大鋸屑(おがくず)をとってあげましょう。などと言っているお前の目に梁が刺さっているぞ、そんな状態じゃ他人のことなど全く見えていない。だからとんちんかんなことばかり言っているんだ。見えていると思っている目に突き刺さっている梁をまず取り除きなさい。そうすれば、解決すべきことがはっきり見えるようになって、他人の小さな問題の解決も手伝うことができるようになるだろう」ってイエスはおっしゃったんです。
【ぼくたちは】
来週は衆議院議員総選挙です。小選挙区に立候補している人にしか投票できないので、選ぶべき候補者がいないのは困ったもんです。
政策の議論や勉強会や意見の擦り合わせをしないで、相手の立場を攻撃するだけでは政策になりません。立場を利用して他人を攻撃して自己弁護しているだけで、解決しなければならない本流が全く見えていない状態は、まるで全員の目に梁が突き刺さっているようです。イエスと共に生きているぼくらは、このような人々に「まず、君の目を閉ざしている梁を取り除きなさい」と毅然(きぜん)とした態度を示すくらいのことをしなければなりません。
ぼくたちは差別され馬鹿にされているのですから、ヘラヘラしている場合じゃありません。イエスのように、しっかり考えしっかり発言する者になりましょう。