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「試練を与える神などいない」20200809
「試練を与える神などいない」20200809
聖書 創世記 二十二章 一節〜十二節
天地創造(一九六六年のアメリカとイタリアの合作映画で、創世記一章から二十二章のアブラハムが息子イサクを捧げようとするまでを描いたもの)を久しぶりにBSで見ました。
大阪の田辺伝道所の少年少女会(ナザレ会)の仲間と一緒に、ぼくが十四歳のころに観にいったのを覚えています。今から五十四年ほど前のことです。
今この映画を見て、映画を作った人々が、よくもまあ、聖書の言葉を、彼らなりに忠実に映像化しようとしたものだと、呆れました。
聖書に従おうとしていることはよく理解できますけれども、そうであるからこそ、眉(まゆ)を顰(ひそ)めることも多々ありました。このように、聖書の言葉をそのまま信じている人がいるんだなあ、と背筋が凍る思いもしました。
特に、神は自分が選んだ人に試練を与える、というおぞましい物語が書かれていることに驚きを禁じ得ませんでした。
【はじめに】
ぼくたちが使っている日本語の正典聖書には、一応、新約聖書に二十七の文書、旧約に三十八の文書が含まれています。各文書に名前が付けられておりますけれども、元々は名前など付いておりませんでした。それぞれが独立して書かれたものですから、文書に題名をつける必要もなかったんでしょう。ですから、今日読んでもらった創世記も、後で付けられた名前です。
「はじめに」という題が一番初めにつけられていたようです。ワープロで文書を書いて、文書名を付けずに保存すると、ワープロが勝手に、文章の初めの部分を題名にしてくれるのに似ています。
この書物を、読み始めると、すぐにどえらい言葉に出会います。なんと、「はじめに、神は天地を創造なさった」と書いてあります。
説明も何もなく、どんな疑問も挟むことを許さないような仕方で、初めっから神が登場しておるんですね。なんの理由があって神が出て来なきゃならないのか判らないまま、突然に神が登場します。
ちょっと待ってください。落ち着いて考えてみましょうよ。誰の言葉なんでしょうね。
誰かがこの文章を書いたんです。この文章を書いた人がいるわけです。誰が、どういう目的でこの文章を書いたのか、そんな疑問を、感じませんか。
著者はいつ頃の人で、どんな背景を持った人で、どんな勉強をした人か、どんな立場でこの文章を書いたんだろうか、などと疑問を持っていいと思いませんか。とは言うものの、ぼく自身も、はじめて読んだ時にはそんなことを考えもしませんでした。そんなことを考えさせる暇も与えないように、上手に書かれているような気がします。
聖書という、なんか権威を持っていそうな書物の最初に、なんの説明もなく、こんな壮大な言葉が宣言されているもんですから、ああそうかって受け止めてしまったんじゃないでしょうか。
有無を言わせぬ方法で、「神は」と言ってしまうものですから、その勢いに圧倒されてしまうんでしょう。こうして、神は全てのはじめに、すでにおられた、ということが頭に刷り込まれたように思います。これだけで、宗教の洗脳はほとんど成功したようなもんです。
今になって思えば、どう考えても、著者が誰かも知らないまま、こんな大事なことを受け止めてしまったなんておかしいことです。そうであるにもかかわらず、読者は神話の世界に引き込まれてしまいます。神が世界を作り、多くの動物や人間を作って命を与えた、ということは多くの人の信条にさえなっておるようです。物語では、神に従わなかった人間の苦悩の生活が描き出され、読者はそのまま神と人間の物語へと引き込まれていくんですよね。
次に、神に選ばれた人々が数人登場します。代表的な人として、アブラハムが登場します。アブラハムはある事件を通して信仰の父と呼ばれるようになった人として描かれております。アブラハムは徹底的に神に従う人であったと紹介されています。こうして、信仰とは神の命令に従うことである、という考え方が読者に植え付けられるんです。
アブラハムには、妻サラとの間に跡継ぎになる息子がなかなか生まれませんでした。しかし、神に選ばれた人ですから、百歳の時に、ようやく息子イサクが生まれます。ホッと一息、これでアブラハムの生涯は安泰だと思ったところで、その平安を根底からひっくり返すような事件が起こりました。
【アブラハムの試練】
この事件の物語のはじめに、神が登場する前に「神はアブラハムを試された」という言葉が添えられております。嫌な響きですけれど、本当かどうか判りません。なぜなら、これはこの物語の著者の言葉です。著者にとって神というのは人を試す存在なんだということは確かなようです。
そしてまた、神が突然出て来ます。「アブラハムよ」と呼びかけて、神が命令を伝えます。神の命令は、焼き尽くす献げ物として「息子イサクをささげよ」というものでした。いくら神様の命令だとしても、こんな命令は受け入れられないのが普通です。そうであるにもかかわらす、アブラハムは淡々と、命令に従う行動を起こしたことになっております。
それまで、アブラハムが思い描いていた神は、勝手気ままに命を与えたり取り上げたりする神でした。そんな神は、アブラハムが心の中で勝手に作った神だったに違いありません。
神を第一にするということは、自分が最も大切にしているものを献げることだと考えたのは、アブラハムです。そんな考えが虚(むな)しいことに、イサクを見て気づかされたに違いありません。
そこまでして、人の愛を試す神なんかいるはずありません。愛を試す神なんて、普通の人間以下です。そんなことをするのは、疑心暗鬼になって、部下の忠誠心さえ疑う、世の中の支配者です。人の命を献げるように要求する神なんかいるはずありません。冷静に考えればわかることです。
狂っていたアブラハムは、自分の信仰心を守るためには最愛の息子さえ捧げなければならないと考えていました。自分の信仰を守るためには最愛の息子さえ殺そうとするほどですから、テロ事件を起こして多くの人を殺すことなどなんとも思わないでしょう。それはただの狂信です。たとえ敵に対してでも、命を求める神などいないことは明白です。自分の信仰心を守り抜くために、すべてを献げる、というのは、究極的に、自分のためにどんなものでも犠牲にすることですから、自己中心の極(きわ)みです。
狂信的な信仰心は、周りを犠牲にします。ですから、受け入れる状態を示す「信仰」という言葉とは関係ありません。全く逆のことです。
【ぼくたちは】
ぼくたちも、正気に戻りましょう。「はじめに、神は天地を創造なさった」という言葉を疑えばいいんです。こんな言葉から神への呪縛が始まるからです。心をあやつられないために、証拠(エビデンス)や根拠のない情報に流されないようにしましょう。個人の能力を引き上げて、当たり前の判断力を養えばいいだけです。大きな犠牲を要求して信仰心を試す神などいないことに気付けましたか。
弱い人を罪人に仕立てる強い人はいますけれども、罪人を作る神などいないように、人を試すために試練を与える神などいるわけありません。