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「野の花でOKです」2020.11.15
「野の花でオーケーです」2020.11.15
聖書 ルカによる福音書 十二章二十七節
世の中の考え方は、偉ければ良いっていう感じですね。偉いという意味は位(くらい)が高いっていう意味です。「誰が一番偉いか」とイエスの弟子たちが争っていたことからも判ります通り、一般社会だけじゃなく、宗教界でも同じです。
修行を積んだ人や高僧が敬われるのは、持ち上げられる人ばかりが悪いんじゃなくて、特定の人を持ち上げる庶民の責任でもあります。
多くの人は、自分たちが主と崇めるイエスに、最高に偉い人であってほしいと思うんでしょう。
ところが、最初に書かれたマルコ福音書に記録されているイエスの姿は、みすぼらしい、としか言いようがありません。イエスがみすぼらしいなんて嫌だったんでしょうね。
イエスの直弟子たちは、初代教会の重鎮(じゅうちん・重要人物)になっていたようです。彼らは教会の中で、偉そうな格好で歩きたかったはずです。ところが、主なるイエスがみすぼらしい格好をしていた、なんてことになれば、自分たちだけがいい格好で歩くわけにもいきません。トップは良い格好でいてもらわないと困る、という弟子たちの気持ちも判ります。イエスは見かけはみすぼらしかったけれども、内実はそうじゃなくて、何もかもに優れた偉い人だったんだということにしたんでしょう。ところが、イエスはマリアという未婚の女性が産んだという事実がナザレの村人たちの常識だったんですから、困ったでしょうね。この事実になんとか特別な意味を持たせようとして、イエス誕生にまつわる神話は書かれたんだと思います。
【王の家系図】
どこの馬の骨かわからない、と言われないようにするために、イエスは王家を受け継ぐにふさわしい立派な血筋だったんだ、と言おうとしたんでしょうか。社会の要求に合わせるかのように、マタイは家系図を書いたのかもしれません。
だれでも、一番高いところまで昇り詰める人には、血筋が要求されます。家系図などの書類を作ることぐらいは簡単にできます。とは言え、血筋を遡(さかのぼ)っても大した者に行きつかない場合もありますよね。そんな時はどうするか、といえば、学歴とか功績を作るんでしょう。どちらの場合でも、詐称(さしょう・偽ってだますこと)であることにかわりありません。
実はね、ぼくもね東大出身者なんですよ。東京キリスト教短期大学ですけれどもね。詮索(せんさく)されない内に言っておきます。
まあ、とにかく、何らかの権威に頼ろうとするのは、権威を持っていなければ受け入れない社会が出来上がっているからです。そんな社会に受け入れられようとするから、嘘をついたり、でっち上げの創作話をしなければならなくなるんです。
そんなことに気を揉(も)まなければいいんですよ。あるがままの自分を表現すればいいんです。あるがままの自分を認めてくれない社会になんか認めてもらわなくてもいいんです。無理して認めてもらっても、どうせ、事実を覆い隠していたメッキは、いつか剥(は)がれるもんです。
【イエスは背伸びしませんでした】
さて、イエスはどんな方だったかと言うと、偉い人にならなきゃならないなどと思っていなかったはずです。そのことは、イエスが選んだ友ら、すなわち、後の弟子たちを見ても判ります。彼らは、当時の社会にいおいて、偉い人たちじゃありませんでしたでしょ。イエスが、この社会で、のし上がろうと思っていたならば、弟子選びに、もっと気を使っていたはずです。イエスは人の素性を気にしない人だったんです。だからイエスは、素性を問うことなく、ぼくたちを友と呼んでくださるんだ、と常々言っているんです。
ところが、マタイ福音書にはアブラハムから始まる系図が書かれております。まるでイエスをダビデ王家の末裔(まつえい)であるかのように思わせる系図が書かれております。
血筋がどうのこうの、ということになれば、ユダヤではダビデ王の血統を持ち出すのが一番手っ取り早いですものね。このようにイエスの誕生にまつわる物語をでっち上げることは簡単です。
しかし、血筋を前面に出してしまうと、イエスが実際に置かれていた状況が見えなくなってしまいます。イエスがみすぼらしい状況で誕生した、とはみなさんも考えていなかったでしょう。
イエスがヘロデの王宮に生まれていたのならば王家の血筋に生まれたと言うのは簡単だったと思います。けれども、そうじゃない現実が、当時の多くの人に知られていたので、物語を創作したんでしょう。
クリスマスペイジェント(クリスマスの降誕劇)や絵画が綺麗に作られていることからもわかります通り、後の時代の教会は、なんとしても、美しい誕生物語にしたかったんでしょう。
けれども、冷静に現実的に考えれば、イエスはみすぼらしい所で生まれた、と判ります。
【マタイの本意】
マタイが教会の手先だったようなことを言ってきましたけれども、正直なところ、マタイの本心も判りかねます。というのも、イエスはヘロデの王宮などには生まれなかった、とはっきり言い切っております。それだけではありません。面白いことに、マタイが書いた家系図は、最後の最後に、イエスがダビデの血統に繋がっていなかったことを示しているんです。
イエスの本当の父は誰かわからない状態です。イエスを妊娠していたマリアを妻に迎え入れたヨセフが、たとえダビデの血を受け継いでいたとしても、イエスの実の父じゃないということを明確に書き残していますでしょう。ですから、「イエスはダビデの血筋じゃない」ことを、マタイは明らかにしたかったのかも知れません。
血筋に拘(こだわ)っているように見せかけながら、本音は、血筋なんか関係ない、ということを言いたかったのかもしれませんね。そういう思惑がマタイにはあって、それが判るように書いた。そうであるにもかかわらず。多くの教会は、マタイの大事な主張をすっ飛ばして、軽率にも、イエスはダビデ王の家系からお生まれになった、などと言っているのかもしれません。
聖書は神の言葉であるから、聖書を大事に扱わなければならないんだ、と言っているにもかかわらず、書かれていない自分たちの願いを、聖書に読み込んでしまう人が多いことを、ぼくはいつも不思議に思っています。
【教会が芸術家を支えていた】
イエスの誕生を伝える絵画も、物語も、映画もクリスマスを解釈したものに過ぎません。それらは人間(教会)の願いが込められていると思います。それにしても、西欧の有名な画家たちが、宗教画を、なぜそんなに綺麗事に描いたんだろう、という疑問が湧いたので、考えてみました。そして、お金の流れを辿(たど)ってみれば理由が判るんじゃないか、と閃(ひらめ)いたんです。
多くの芸術家たちは、教会からの注文を受けて絵を描いているんです。いわば教会のお抱え芸術家です。教会の意向で芸術作品は作られているんです。画家も、音楽家も、教会の教えを自分たちの芸術作品で表現しているんですから、有名な芸術作品のほとんど全部が「教会の教義」を伝えるための「視聴覚教材」だと言えます。
視聴覚教材の効果は絶大でした。知らず知らずの内に、教会の教義を、多くの人は刷り込まれてきたんです。ご承知の通り、刷り込まれたものは、なかなか払拭できないんですから、これはたいへんなことです。
これらによる呪縛から自由にならなきゃいけない、とぼくは思っています。だまっているわけにはいかないんです。なぜなら、何度も言いますように、美しい神話は現実のイエスを覆い隠して、見えなくしてしまうからです。
人は美しいものに目と心を奪われ、一時的に幸せな気持ちになるかもしれません。しかし、苦しみや悲しみの中にいる人を、現実の悩みから解放してくれることはありません。
美しいものに、目と心を奪われている間は、現実の自分を受け入れることができません。素晴らしいバーチャルな世界と、自分の現実があまりにも異なっていることを思い知らされるだけです。
美しいとか素晴らしいとか偉いとか裕福だとか、すべては、社会が決めつけた価値観です。。少しでも上を目指さなければならない、と多くの人はせきたてられて苦しんでいますけれども、バーチャル(仮装の)美は刷り込まれた価値観でしかないんです。だれも苦しむ必要なんかないんです。だから、刷り込まれた価値観なんか、捨ててしまうように、とイエスは弟子たちに教えました。あなたにも同じ提案をなさるでしょう。
【ぼくたちは】
最後に、有名な言葉をお知らせしましょう。イエスは、野に咲く一輪の花を愛(めで)て、「栄華を極めたソロモンさえ、野の一輪の花ほどにも着飾っていなかった」(ルカ十二章二十七節)とおっしゃいました。
花の大きさも種類も判りません。けれども、とにかく、野の一輪の花に目を留めたイエスは、王座に就いたソロモンがいくら着飾ったところで、この一輪の花ほどにも美しくなかっただろう、と語りました。価値観の転換です。
あなたは自分を野の花だと思っているかもしれませんね。でも、それでいいじゃないか、最高じゃないか、とイエスなら、あなたに最大の賛辞を贈るでしょう。そのままのあなたが最高なんだ、と最大の賛辞を贈ってくださるイエスの言葉が聞こえてくるのを感じます。
ところが、もしも、まるで栄華を極めたソロモンのように、イエスが美しい装飾で飾り立てられていたならば、そんなイエスは、こんな賛辞を、あなたに語ることはできません。
世間の価値観からすれば、みすぼらしい状態としかみえなかったとしても、お生まれになったそのままの姿であればこそ、イエスは福音を語ることができるんです。価値観を変えさせて、ぼくたちに現実のやすらぎを与えることができるイエスの言葉を聴きましょう。そのために、バーチャルな美しい物語を剥ぎ取りましょう。