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「能登半島に復活するイエス」20240331
「能登半島に復活するイエス」20240331
聖書 マルコ 十六章 一節〜 八節
先週は、個人的な復活はないという事実を話しました。死んだ人が、生前のような姿で甦ってくるようなことはありません。それがこの世界の変わらざる秩序です。ですから、殺されたイエスが、生前のような格好で弟子たちに姿を現したと言い張る三つの福音書は、少なくともこの部分で嘘をついています。死人を再び登場させないマルコ福音書は、少なくともこの部分を見ただけでも信頼に足ります。四つの福音書を三対一の多数決で分けても真実は見つかりません。死人は生き返らないという事実がマルコの正しさを証明しています。
死んだ個人が生き返ってくるのではなく、殺された人がまるで生き返ったんじゃないかと思えるような仕方で別の人が登場することをマルコは復活だと説いているのです。
これを示すためにマルコは、バプテスト・ヨハネが捕えられたからイエスが活動を始めたという動機を述べ、ヨハネを殺した領主ヘロデに「あれ(イエス)は私が首を刎ねた、あのヨハネが生き返ったのだ」と言わせたのです。そして最後に、ローマ帝国の極刑である磔刑によってあまりにも簡単に殺されたイエスの最期を述べております。
ただし、福音書はこれで終わりません。イエスは復活したと続いているのです。復活したとは言いますけれども、殺されたイエスは姿を現しません。こんなところでイエスが姿を見せたりすれば、ただの昔話になってしまうからです。
「復活したんや。ガリラヤに行ったら会えるでえ」と天使のような若者が語ったと書いています。若者を登場させたくらいのことは、ご愛嬌(あいきょう)として、大目に見ておきましょう。他の福音書と異なっている大切なところは、復活したイエス個人を登場させないところです。
【イエスではない他の誰かが現れる】
死んでしまったイエス個人を探しに行っても見つけられません。しかし、ガリラヤに行けば、生前のイエスのように、既存の宗教を批判したり、差別されている民衆に教えたり、病人を元気づけている誰かがいるということです。
ローマ帝国の側からすれば、ガリラヤ出身でエルサレム神殿までデモ行進したイエスは、十字架に付けて殺したはずなのに、またガリラヤで蜂起の芽が出ているとはどういうことなのか。「十字架に付けて殺したあのイエスが、生き返ったのだ」と怖れたはずだとマルコは言うのです。このように、民衆があちこちで雑草のように立ち上がってくることが復活なのです。
どんな人も死を免(まぬが)れません。イエスは殺されましたけれどもイエスの生き様は滅ぼされませんでした。
イエスの生き様に影響された人たちは生き続けていました。どのような形であるにせよ、イエスの生き様を受け留めた人が、雑草のように、表に現れてきたのでしょう。それは殺されたイエスがまるで甦ったかのように思えたというのが、マルコが伝えたイエスの復活です。
【いろんな引き継ぎ方がある】
後を引き継ぐと言っても、受け止め方は、人それぞれです。受けとめた人によって、異なる反応が出てくることは否めません。
世襲(せしゅう)の世界でも、親と同じことをする後継者が生まれてこないように、先生と同じ意志を持つ弟子が出てくる訳ではありません。
イエスの意志を受けとめて、本当にイエスの後継者だと言われる人が出てくる可能性もありますが、ほとんどの場合、異なっているはずです。しかも、後継者がすぐに現れるとは限りません。
【後継者がすぐに現れるとは限らない】
イエスの後継者になることを期待されたのは直弟子たちだったでしょう。しかし、先週も言ったように、直弟子たちは師匠の意志を理解していなかったのです。ところが、イエスの言葉や行いはさまざまな形で記憶され、記録されていました。各福音書にも残されています。それらに触れた人々の中から、何代も後に、イエスの後継者が現れる可能性もあるのです。
【直弟子でない人】
イエスの直弟子たちでなくても、イエスのように生きた人もいるはずです。イエスの生き様を自分なりに捉えた人もいるでしょう。自分の感じたことを表現しようとした人たちの著作が現代の聖書にも残されています。
生き方は生き方でしか捉えられません。生き様の捉えかたも千差万別です。どれがいいとも言い切れません。イエスの生き様を研究して、それをどのように解釈し、利用するかも自由です。中にはイエスの生き方を批判的に捉えて、イエスの生き様に反する生き方を選ぶ人もいるはずです。つまり、権力者と協力して富を得たり、安全安心な生き方をする人もいるのです。
イエスはバプテスト・ヨハネの福音をそのまま継承した人ではありませんが、ヨハネの生き方に似た部分がありました。ヨハネのように為政者を批判すると殺されるということをイエスは予想できました。それにもかかわらず、イエスは民衆の立場で権力者を批判する生き方を選んだのです。それがいいかどうかは判りません。判らないけれども、イエスの生き様が今も語り継がれているのは、イエスが長寿を全うしたからではなく、十字架に架けられた人だからです。
イエスの直弟子の一人、ペトロは初代教会の代表者のように取り扱われ、その後継者はローマ・カトリック教会の教皇に上り詰め、金銀財宝に囲まれて生活しています。そんな人は、イエスを裏切ったペトロの後継者であるとしても、イエスの後継者でないことは確かです。これも一つの生き方ですけれども、そこには、イエスのように人を救う福音はありません。
【ぼくたちは】
今年の元旦に発生した令和六年能登半島震災で、伝統工芸の輪島塗が大きな被害を受けました。再生できないだろうという落胆的な意見もありましたが、優れた職人たちの作品もかろうじて残されていたことが判りました。伝統工芸はすぐに復活できないかもしれません。しかし、残された本物を研究して、いつかそれ以上の物を作り出す人が出てくる可能性は大きいと思います。
死者は生き返りません。しかし、生き様や伝統を復活させる後継者は出てくると思います。それが復活です。それで十分だとぼくは思います。
そのように別の人が、別の形で、大切なものを受け継いで、大切な生き様を甦らせるでしょう。これが復活です。
イエスがぼくたちを通して復活することをぼくは願っているのです。