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「真実に近づこう」20231015
「真実に近づこう」20231015
きょうは旧約聖書を読んでもらいました。ぼくたちがよく読んでいる新約聖書の福音書に書かれているイエスの出来事が起きたのは、ほぼ二千年前のことです。その時代のことすら判らない記事がおおいのです。増してや旧約聖書の天地創造の記事は、まったく誰も知らない頃を題材にしているのです。常識的に考えれば、御伽噺(おとぎばなし)であると誰にでも判るはずです。
説教をユーチューブで配信していますが、聖書をお持ちでない視聴者には判りづらいことも多いでしょう。たとえ聖書を手にしたとしてもどう読めば良いか判らない人がほとんどだというのが事実です。そこで、聖書を少し理解していただくために、今日は聖書の最初に置かれている書物(創世記)を選びました。
聖書と聞きますと、多くの人はしっかり確立した一冊の本を思い浮かべると思います。しかしそうではありません。いま皆さんが手にしている聖書は、千年ほどの期間に様々な場所で、様々な背景を持った人によって書かれた六十六に分かれた文書の集合体です。四世紀ごろにはほぼ今のような姿に編集されたのですが、いまだに完璧なものでないということを覚えておいてください。
【聖書を編纂した教会も分裂していた】
現代のような聖書を生み出したのは教会ですから、教会についても少し話しておきましょう。世界史で習ったいわゆる宗教改革の結果、プロテスタント教会が生まれたのは十六世紀です。
プロテスタントとはプロテスト(抗議する)人たちのことです。ローマ・カトリック教会組織に対する抗議者に付けられたあだなですから差別用語だったのです。
いわゆるカトリック教会組織の基礎が確立したのは四世紀ごろです。彼らが自らカトリック(普遍的)教会を自称したのだとすれば、キリスト教など、伝統的な宗教から軽蔑され、認められていなかったから、負けないように虚勢(きょせい)を張っていたのかも知れません。しかし、当時の世界を支配していたローマ帝国との繋がりができて以降は本当に普遍的な教会を目指したことでしょう。とはいえ、偉大なるローマ帝国も東西に分裂したように、教会もローマ・カトリック教会と東方正教会に別れます。それらも一様のことではなくて、神学や政治との関わりによって生まれたさまざまなセクト(分派)争いの結果なのです。
西ローマ帝国の滅亡後も、強力な教会組織は繁栄を続け中世ヨーロッパの信仰の土台にまで成長しました。
十四世紀から始まったルネッサンス(古代文化の復興運動)は、教育、芸術、文化、技術などで新しものを生み出しました。修道院や大学を設立し、新しい技法を取り入れた教会建築においても、教会は重要なパトロンの役目をはたしたのです。しかしこの運動は価値観の多様化にも目を開かせたので、教会は思いもよらないところから反撃を喰らうことになりました。教会組織の内側から、教会指導者たちへの反発が起きたのです。九十五箇条の質問状をウィッテンベルグのアレクサンダー教会の扉に貼り付けたと言われる世界史教科書にも名前が出てくるマルティン・ルターは修道僧だったのです。特権階級しか読めなかった聖書をルターは自国語に翻訳して、一般人が読めるものにしたことは教会の組織改革にとって必要不可欠なことでした。改革に目覚めた人たちに対するカトリック教会指導者たちの対処がまずかったのでしょう。ルターは、プロテスタント(抗議する者)の代表格として、ルター派(ルーテル教会)の祖になっています。神学的な考え方や政策の違いから分裂するという出来事は、早い段階から常に起きていました。まあみんなそんなもんです。
【聖書を常識で読む】
こういう問題に頭を突っ込んでいくと収拾がつかなくなりますから、するりと通り抜けていくことにします。なぜなら、このような考え方の違いを埋めることはできないからです。神学的にあるいは政治的に突き詰めてもこのような違いを乗り越えることはできません。ですから、ぼくらは空虚な論争を避け、実際の生活において考え得る常識に照らして、物事を判断し乗り切っていくことにしましょう。
今日読んでもらった創世記と呼ばれている書物は、ぼくたちが今持っている聖書の最初に置かれている書物です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の最初の五つがモーセ五書と呼ばれていまして、十戒で有名なモーセが書いたとされています。けれども、モーセが死んでからのことも書かれていますので、常識的に考えて、モーセが著者でないことは確かです。
【神話は神話として読む】
「はじめに」という言葉で書き出された物語は、神が混沌の状態から一週間で宇宙を創造したという内容です。こんなこと、常識的に考えれば神話だと判ります。この神話を、言葉のままに信じなきゃならないと教える人がいるのですから、常識外れもいいとこで、困ったものです。
二章の四節には「これが天地創造の由来である」という言葉があり、もう一つの天地創造神話がかかれていることが判ります。ここに「『主なる神』(ヤハウェ)は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。そして人は生きる者となった」と人の創造が描かれています。主なる神は人をエデンの園に連れて来て園の番人にした時に、園の中央にある「善悪を知る木」からは実を採るな、触ってもならん、と禁止命令を出します。この命令を破ったことで、人類全体が原罪(げんざい)を背負って生まれてくるのだと教えたのが、ユダヤ教とキリスト教です。アダムの罪が全人類に波及するなんて、常識的にあり得ない神話による呪いです。
宗教家は神話の中の神が現実にいるかのように錯覚させて、そんな神の命令に庶民を服従させようとして来ました。こんな絡繰(からくり)は誰でも見破れるはずなのに、なぜか多くの人が騙されつづけているのです。しかしイエスは宗教家の嘘に気づきました。人類を滅ぼす人はいるかも知れませんが人類を滅ぼす神など居るわけありません。自分を神に対する罪人だと考えるのは錯覚(さっかく)です。
【ぼくたちは】
生まれながらの罪人だと教え込まれて、自分を罪人だと思い込んでいた人に、イエスは「君の罪は赦される」と宣言しました。これがイエスが伝えた福音です。見える存在であった人間イエスの言葉が大切です。なぜなら、人間イエスの言葉は、御伽噺(おとぎばなし)の見えない神の言葉よりも「真実に近い」からです。