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「聖書信心を捨てる」20221002
「聖書信心を捨てる」20221002
聖書 ルカによる福音書 一章一節〜四節
最近は社会の嘘に気づくことができるようになりました。若かった頃には気づくことができなかった嘘をなぜ見破ることができるようになったのか、と考えてみました。そして判ったのは、ぼく自身が専門的に取り組んできた学問分野において嘘があることを発見したからです。一つの嘘を見抜くことができれば、他の分野にある同じような嘘の構造にも気づくことができるようになるのです。
ぼく自身は大した専門家ではありません。しかし一時期でも聖書を真摯(しんし・まじめでひたむき)に専門的に学んだからこそ、聖書の中に齟齬(そご・くいちがい)があることに気づくことができるようになったのです。
【敵対する福音書】
たとえば、共観福音書と呼ばれている三つの福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)には整合性のない物語がいくつも書かれています。
単なる勘違(かんちが)いだと言うこともできます。しかし、そもそもキリスト教会が誤りのない神の言葉であると言い切っている聖書に勘違いがあるならば、自己矛盾しています。矛盾していることを知っていて知らせないのには悪意を感じます。けれども、そこまで言うのは言い過ぎだとおっしゃる方のために悪意という言葉を撤回したとしても、異なった記事を書いている著者には敵意があると思えます。
【マルコに敵意を現したルカ】
今日はルカが書いた福音書の冒頭の言葉を読んでもらいました。ここには「・・・最初から目撃してみ言葉のために働いた人々が、わたしたちに伝えた通りに、物語を書き連ねようと、多くの人々がすでに手をつけました」と書かれています。ルカ福音書には、マルコ福音書に掲載されている記事が全部あることから、すでに出回っていたマルコ福音書をルカが持っていたことが判ります。それだけではなくてルカはマルコ福音書を傍(そば)に置いて自分の福音書を書いていたことが判ります。ですから、マルコ福音書を念頭に置いて、ルカはさらに続けて「わたしもすべてのことを初めから詳しく調べましたので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」とわざわざ書いているのです。
イエスのみ言葉をさらに多くの人に判りやすく伝えるためにルカはマルコが書いた福音書をおぎなうために、自分の福音書を書いたのだろうとぼくは考えておりました。みなさまも、そのように微笑(ほほえ)ましく考えておられたことでしょう。しかし、聖書の研鑽を進める内に、新約聖書中の、よく似ているようで非なる福音書が、同じ目的で書かれているとは思えなくなりました。そこで、キリスト教会が昔から教えてきた聖書観を一旦横に置いて、すなわち教えられてきた先入観に影響されずに読んでみると、まったく異なった響きが聞こえてきたのです。
教会にすでに流布(るふ)していたマルコが書いた福音書を知っていたからこそ、ルカは「わたしもすべてのことを初めから詳しく調べました」そして「順序立てて書きました」と強調しているのです。すなわち、すでにある福音書はわたしほど詳しく調べて書かれたものではないし、出来事の順序も違っている、とルカは主張したのです。つまり、すでにあったマルコ福音書を批判するために、ルカは自分の福音書を書いたのです。ルカのそのような意志が明確に書き込まれているのですから、複数の福音書が矛盾していないなどと教えて来た教会の教えが矛盾しているのは明白です。
とにかくすでに流布(るふ)しているものを、ルカはそのままにしておけなかった。傍観しておけなかったのでしょう。そうであったから、ルカはわざわざ手間をかけて自分の福音書を書いたはずです。マルコは違う、見過ごすわけにはいかない、などと考えて、マルコの主張を打ち消すためにルカは自分で福音書を書いたのです。
【パウロの手紙は十三通じゃない】
齟齬(そご・くいちがい)があるのはもちろん福音書だけではありません。聖書は、それぞれバラバラに書かれた文書の集合体なのですから、内容も統一していません。新約聖書は二十七の文書に分けられています。この分け方も正確ではないようです。たとえば、パウロの手紙の中にも異なる手紙がまとめられて一つに数えられているものもあるようです。ぼくはいい加減な専門家なので詳しく説明できるほどは知りません。
「聖書は誤りなき神の言葉である」と教えられた方はこのようなことを聞かされても、認めることができないことは承知しています。けれども、今の聖書の形式が定まる前は、他の文書と同じように歴史の中で書かれた文書だったのです。この事実を認めていただければ、多くの謎は比較的簡単に解けるはずです。
また、何度も言っておりますように、新約聖書中に十三通あることになっているパウロの手紙のうち、ほんとうにパウロの手紙は七つだけです。読み比べてみると、神学的にパウロが書いたのでないことははっきり判ります。そうだとすれば、六つの手紙はパウロ以外の人がパウロを騙(かた)って書いたということです。この事実は聖書が誤りなき神の言葉ではないということを証明しています。喉を詰めないために、聖書を鵜呑み(うのみ)、丸呑みしてはいけません。
【聖書信心を捨てましょう】
ここ数百年ほどの科学の進歩のおかげで、これほどの事実が判明したのですから「聖書は誤りなき神の言葉である」などというキリスト教会の古くからの信条が間違っていることははっきりしました。「聖書は誤りなき神の言葉である」という教会の教えは「幻想」です。聖書を破棄せよと言うのではありません。誤りがないという迷信を破棄すべきだと言っているのです。今の聖書は、そのままを信じさせるために書かれたものではありません。聖書を無批判に信じ込むことをやめて、聖書を批判的に読めばよく理解できるようになります。
聖書を信じることは神を信じることだと教会は教えました。しかしそうではありません。聖書を信じることは、これだけが聖書だと決めた初期の教会会議の決定事項を信じるだけのことです。また「聖書をそのまま信じる」ということは、齟齬のある文書が纏められた集合体である聖書そのものを信仰の対象にすることです。このような無闇で無謀な思い込み(信心)は信仰と無関係です。それ以上に、信仰に反する不信仰というものです。もちろん、イエスがお伝えになった福音と何の関係もありません。
【ぼくたちは】
先週、教会の物置を掃除した時に、古くて使い物にならない物を捨てました。科学の本のように古くなると使えない物が生活の中にいっぱいあります。捨てなきゃならない考え方もあるのです。たとえそれらを捨てても、ぼくらの生活が困るどころか、むしろ、捨ててしまったほうが、身も心もスッキリして、物事が理解できるようになります。
初めに申しましたように、社会の嘘に気がつくようになったということはそういうことです。嘘にしがみ付いてはなりません。嘘は突き放しましょう。そうすれば、あなたはもっと楽しくイエスの福音を理解できるようになるはずです。