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「神は何でもできる?」20210704

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「神は何でもできる?」20210704

聖書 マルコ福音書 十七節〜十七

 

 多くの方によく知られているほど有名言葉が聖書の中にはいくつもあります。

 たとえば、「敵を愛せよ」とか「人はパンのみにて生くるにあらず」「目から鱗(うろこ)「豚に真珠」「目には目、歯には歯」など、他にもたくさんあります

 今日の話の中に「神は何でもできる」と言う言葉があります。しかし、この言葉は聖書を読んだことがない多くの人でも、まるで常識であるかのように信じ込んでいる一般的な信条のようなものだと感じます。ところがなぜかこの言葉今日の物語の最後にイエスがおっしゃった結論であるかのように教わってきました。はたしてそうなのか。イエスでなくても誰にでも言い得る言葉であるならば、イエスがわざわざこのような言葉で締(し)め括(くく)る必要はなかったのではないか、という疑問を持ちましたのでぼくは考え直してみることにしました

 

永遠の命

 今日の話の導入部分には、金持ちの男が登場します。資産家である彼は生活に必要な物すべて持っていたでしょうだから、彼は自分が持っていない確信、つまり永遠の命を得られるという確信を持ちたいと思っていたんでしょう

 「永遠の命を受け継ぐには何をすればいいでしょうか」と彼がイエスに尋ねていることからりますように、永遠の命を得たいと思っていたことは確かで永遠の命が得られる確信をイエスから与えてもらいたい。これが彼の最大の関心事だったんでしょう。

 

【あしらっているようなイエスの答】

 イエス十戒の言葉を引用して、「掟(おきて)ご存知でしょう軽くあしらったように思います。すると、「それらのことは小さい時からしてきました自慢応えが彼から返ってきました。それなら、とばかりにイエスは難問を突きつけました。難問というよりも、行動を促す決断を求めたようです。

 「一つ欠けている事を教えよう、すべての財産を売り払って貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝をもつことになる。そして、ぼくに従いなさいとイエスはおっしゃったことになっております。この人はイエスから何かを求められることぐらいは覚悟していたでしょう。しかし求められたとしても、もっと簡単にできることを要求されると考えていたんだと思います。そうでなければ、わざわざイエスに答えを求めたりしなかったでしょう。

 なんの要求もせず罪人に赦しを宣言なさったイエスの姿を彼は見ていたのでしょう。そうだとすれば、十戒の掟を守ってきた「それで十分だ」とイエスから言ってもらえることを期待していたように思えます。

 まさかそれ以上の要求をつきつけられるとは思っていなかったはずです。

 この人はイエスから勧められたことは実行できないと感じ、がっかりしてその場を離れていったのだそうです。そして、この物語には彼はとても沢山の資産を持っていたからだ」と理由が示されております。

 この金持ちは、永遠の命を得るために、まじめに仕事をして、まじめに掟を守ってきたことでしょう。真面目な人が永遠の命に迎え入れられるという信念を持っている人は多いのです。

 今のままで十分だよと言ってもらいたかったはずです。しかし、彼は考えてもみなかった挑戦をイエスから受けたのです

 

【金持ちが受けた挑戦】

 資産をすべて処分して、わたしに着いておいでと言ったイエスの言葉は、金持ちの本心がどこにあるのかを自覚させるきっかけになったようです。

 金持ちは、永遠の命が欲しいと思っていたものの、それは多くの資産にプラスして欲しいものだったんでしょう。ところが、永遠の命を手に入れるためには、全資産を手放さなければならないと言われて、度肝を抜かれたはずです。

 イエスは、現生の豊かな生活を保証する全資産と永遠の命を、彼の天秤(てんびん)にかけさせたのです。そこで彼は冷静に考えて、現生の資産の方が死んでからの永遠の命よりも大切だという結論に達したんでしょう。

 確かに、死んでからのことなんか誰にもりません。先祖代々教えられて来たものの、永遠の命が本当にあるとは思っていないという彼の本心が明らかになったように思います。伝統的な教えに従ってはきたけれども、永遠の命の教えなんて腑に落ちていなかったということです。生きている間に楽しみたいという本心に彼は気付くことができたんだと思います。

 金持ちの決断は一般的な思考の結果であって、それが間違っている訳ではないと思います。それが彼の決断ですから彼は今まで通り、できる範囲でやっていけばいいんです。それしかできないならそれでいいじゃありませんか。

 

【イエスの言葉と弟子の反応】

 金持ちがイエスのもとから去っていったという現実を受けて、金持ちが神の国に入るのは本当にむつかしいよなあ」とイエスは弟子たちにこぼしました。「永遠の命を受け継ぐ」という表現「神の国に入る」という表現に代わっておりますのは、イエスの神の国と永遠の命がイコールでないことを示していますが、今日は時間の関係上取り上げることはしません。

 とにかく、弟子たちはイエスの言葉を聞いて驚いたんです。驚いている弟子たちにさらにイエスは追い討ちをかけるかのように「神の国に入るのはむつかしいもんだよな」「金持ちが神の国に入るよりはラクダが針の穴を通り抜けるほうがよほど簡単って言ったもんですから、弟子たちはびっくりぎょうてんして、「そんなことなら、誰も救われないじゃありませんか」とつぶやき合ったようです。

 

【弟子の反応にたいするイエスの反応】

 そんな弟子たちの様子を見ながら、イエスは落ち着き払った様子で「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言葉をつづけたように書かれています。そういえばそうだったよなあ。神には何でもできるんだよなていう話で終わってしまそうですがこんな解釈で終わらせてしまったのでは、面白くも何ともありません。なにか違うなあ感じましたので、の話の流れをもう一度考え直してみました。

 さて、ぼくの想像によればびっくりしたのは弟子たちだけじゃありません。「そんなことならだれも救われないじゃないですか」と反応した弟子たちを見たイエスのほうが、もっとびっくりしように思います。

 びっくりして大きく目を見開き、弟子たちを見回して、そんなことないだろう。人間にはできないけれども、神は何でもできるって、みんなはいつも言っているじゃないか」てな感じでイエスはおっしゃったんだと思います。

 イエスは高飛車に「神には何でもできるんだ」と教えたんじゃないはずです。これはイエス自身の信念を表現した言葉じゃないと思います。

 「神には何でもできる」とイエスが言い放ったように今まで考えていたんですけれども、そんなわけありません。なぜなら、こんな信念は、イエスが教えなくても、当時のユダヤ人の誰もが信じている一般的な信念だからです。

 

【海を分ける神を信じているでしょう】

 信者さんたちは、モーセが率いるイスラエル民族たちエジプト軍の追っ手から救うために紅海の水をお分けになった神様を信じているはずですよね。「神にできないことは何もない」と信じているはずですよね。

 そうであるなら神様は金持ちを救うことができることぐらい判っていてもいいはずですよね誰も救われないじゃないかと驚くほうが不思議ですよね。「びっくりしちゃった」と、イエスが言っている言葉がぼくには聞こえる気がします。

 

神は何でもできるという妄想

 「神は何でもできる」「何でもできるのが神なんだ」という定義は、当たり前のように多くの人が信じていますけれども、それは刷り込まれた先入観であり、大き勘違いに過ぎないと思います。そんなことを本心から信じていないんじゃないでしょうか。

 ユダヤ教の信者たちにとって、「神にできないことは無い。神は何でもできる」というの当たり前の信条です。

 キリスト教徒も、他の宗教を信じている人も、どんな宗教も持っている信条(固く信じている信念)です

 あるいは、口では宗教なんか信じないと言う人の多くも、神がいるのなら、神は何でもできるはずだ。何でもできるのが神だ神なら何でもできなきゃならないなどと考えていると思います。

 神は全知全能であるはずだから大きい災害が起こったり、悪人がはびこる社会があるということは、全知全能者がいないということだ、などと無神論者は言います。けれども、よくない事が起こることが、神はいないということの証拠になりません。なぜならば、無神論者も、神は全知全能でなければならない、という妄想に立って議論しているからです

 いずれにして人間神を定義することできないと言いつつ、神を全知全能だと神の性質を定義している根底が間違っています

 人がそういう矛盾に満ちていることをイエスは指摘して批判したんだろうと思います。

 つまり、君たちの神は何でもおできになる、と信じているならば、金持ちを救うことくらい、神には朝飯前だと思えるはずだから「金持ちが救われるよりも、ラクダが針の穴を通り抜けるほうがやさしい」と言われてもそんなことじゃ、誰も救われないでしょう」とうろたえる必要なんかどこにもないはずだ、イエスは言いたかったんじゃないでしょうか。

 

【ぼくたちは】

 口では全知全能の神を信じていると言いながら、本心ではそんな神が居るということを信じていないのが信仰者だと思います。現実の世界を見れば、全知全能の善なる神がいるとはとても思えないことばかりですから、現実を無視して全知全能の神を信じ切らなきゃならない、とぼくは言っているんじゃありません。だからと言って、全知全能の神などいないと信じている人が悪い言っているんでもありません。

 どちらでもいいんです。ただ、信じるなら信じる信じられないなら信じない。どちらでもいいけれども、本心はどうなんだ。はっきりしろよってこの物語のイエスは金持ちにだけではなく弟子たちにも問いかけたんでしょう。もちろん、あなたもぼく問いかけられています。

 あなたも自分の本心を知って、自分の本心に従う生き方をすれば、うろたえることなんか無くなります。うろたえることなく生活できるようになれば、それだけで十分幸せじゃないでしょうか

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