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「水の上を歩かない」20210613
「水の上を歩かない」20210613
聖書 マルコ福音書 六章四十五節〜五十二節
【意味ない物語】
十六年以上もマルコ福音書を中心に説教してきましたが、今日読んでいただいた箇所から話した覚えがないのは、イエスが湖の上を歩いたという内容に信仰的な意味を感じないからです。
これは、イエスが神の子であるということを前提にした教会が作り出した物語に違いありません。ですから、内容的には真面目に取り上げる価値もないと考えております。そんな物語であるにもかかわらず、今日わざわざ取り上げましたのは、このような神話を信じる必要はないということを知っていただくためです。
【有害な物語】
人間の理性がたくさんの間違いを含んでいることを承知の上で、敢(あ)えて申しますと、このような物語は、極めて正常な人間の理性を攻撃する有害な記事であると言えます。そして、聖書と呼ばれている文書の集合体の中に、このような有害な物語が、多く存在していることを知っていただきたいと思います。
【水上歩行の物語】
水上歩行の神話は、マタイ福音書十四章二十二節〜三十四節に並行記事があります。そこには、ペトロがイエスに願い出て海の上を少しだけ歩かせてもらったという逸話が追加されております。
イエスの許可を得たからできたのだ、という条件付きでありますけれども、さらに、少しの距離だったという制限付きではありますけれども、弟子のペトロが水の上を歩いたということです。もちろんだれも言葉通りに信じてはいないと思いますけれども・・・。
十二弟子の中でペトロだけが水上歩行の希望を申し出て、少しだけれども成功したということですから、この逸話が作り出されたのは、ペトロが初代教会の代表者の立場になってからだと思います。短い距離であれ、水の上を歩いたなんてことは荒唐無稽(こうとうむけい・現実性のないさま、でたらめ)です。
奇跡を行う者は常識破りの飛び抜けた能力を持っているということを示そうとしただけです。奇跡そのものには何の意味もありません。
誰かが奇跡を起こせたとしても、ぼくたちにとっては何の意味もありません。
イエスは神の子だから湖の上を歩くことができたんだ、と信じている人もいるでしょう。けれども、水の上を歩いたから神の子なんだと信じるなんて、御伽噺(おとぎばなし)を現実だと思っているだけのことです。
自分にとって「イエスは神の子である」と告白することは、イエスが水上歩行できるかどうかにかかっているわけでは決してありません。
水の上を歩くことができることが神の子であることの証明にはなりません。もし証明になるのであれば、事あるごとに水の上を歩いたり、集まってきた民衆に湖畔の水の上から説教すればよかったんです。そうすれば、多くの人がびっくり仰天してイエスを神の子だと信じたはずです。しかし、そんなことは信仰とは無関係です。
荒唐無稽な奇跡など、イエスは決してなさらなかったということは、イエスが捕らえられた時に、弟子たち全員がイエスの下から逃げ去った事実を見れば明らかです。イエスは決して超能力者ではありませんでした。
イエスのお許しを得たおかげで、水の上を少しだけでも歩かせてもらうことができたという極めてラッキーなペトロも、波を見て「なんて恐ろしいことをしたんだろう」と怖くなって溺れかけたので、イエスが掴んで助け上げた、などという逸話は、ペトロの人柄をよく示していますし、弟子たちの代表として「信仰薄きものよ」って叱られちゃった、なんていうところも、おもしろいんですが、あり得ない御伽噺です。だれも、水の上を歩けません。たとえ、イエスには出来たんだと主張する人にとってもペトロがそんな真似をする必要はないのです。
【自然に介入する神などいない】
神や神の子や偉大な預言者は自然さえ制御できると信じたい人が多いのでしょう。しかし、そんなことは夢物語です。自然法則を気分次第で変更する神なんてあったら安心して生活することができません。
必要に応じて自然法則さえ無視してくださる神がいてくだされば安心だと思うかたが多いでしょう。しかし、そんな考えは全く誤解です。それほど安心できない状態はありません。なぜなら、予想できない事態がいつ起こるかわからなければ、すべてのことが不安になるからです。
法則に則って全てのことが起こる社会ですら、いつどんな事件に巻き込まれないか判ったもんじゃありません。それに加えて、物理法則では予測できない事がいつ起こるか判らないような世界では、おちおち寝てもおれません。
神が自分の作った世界に突然介入して、自然法則を無視すると考えるのは不信仰です。奇跡を求める人々が多いことをイエスも嘆いておられます(マタイ十二章三十八節〜四十節)。
【イエスのように生きることは難しくない】
イエスのように生きることがぼくたちには求められている、とぼくはよく主張しますけれども、それが難しいのだ、という感想を木曜日にいただきました。
どうもみなさんは、難しいことを考えすぎるようです。イエスが難しいことばかりなさった方だとは思えません。
神話のイエスを真似ようとするから難しいんじゃないでしょうか。しかし、普通の人として生活なさったイエスを真似ようとすれば、十分に可能だとぼくは考えております。
神話で表現される物語に登場するイエスのように、ぼくたちは奇跡を行う必要はありません。
イエスも普通の人間だからこそぼくらと関係があるのです。イエスがスーパーマンのような人であったならば、SF映画やアニメに出てくる主人公たちと同様に、生身の人間であるぼくらと実質的な関係を作ることはできません。
イエスが、ぼくらの周りにいる人たちとちょっと違うように見えるところは、世間の風潮に流されていないところぐらいです。
【イエスは自分の意見を持っていた】
社会組織が作り上げた常識や伝統、知識層が作り出した知恵や理論に流されずに生活なさったように見えます。イエスをすばらしいと感じるところは、自分の意見を持っておられたことです。
何でも反対する野党のようじゃなく、派閥争いのために自分の意見を言えない人々のようにでもなく、自分で考え抜いた意見を、しっかり述べたことが何よりもイエスの魅力です。
イエスの福音は単なる思いつきじゃありません。なぜならば、イエス自身が苦労の中で体験して培(つちか)ったものだと思えるからです。
イエスの出自をみても判りますように、イエスは実の父を知りません。クリスマスの神話しか知らない人にとっては夢物語の体験者に見えるでしょう。しかし、現実的に考えれば、実の父を知らない人です。そんな人が、世間の差別を受けずに育ったはずはないのです。
差別された人が苦悩しない訳がありません。イエスは当時の宗教にも救いを求めたことでしょう。ですから、神から愛される者になろうとして、イエスはヨハネからバプテスマを受けて、荒野で修行したことも頷けます。しかし、そこでも救いを得ることができなかったイエスは、修行の道を断念することによって、人として自分の生きる道を見出したのだと思います。すなわち、イエスはさまざまなことを体験したから、自分の思いを大切にすることができるようになったのに違いありません。他人から教えられたことに根ざしていては救いを得ることができないことを悟ったからこそイエスは自分の感覚を研ぎ澄まして、自分が感じたことを自分の言葉で語ったんだと思います。
【頼るべきは自分】
イエスが律法の伝統的な解釈さえ批判することができたのは、自分の考え方を持っていたからです。自分の考えだけでは不安だと思う人もいるでしょう。しかし、どんな教えを受けたとしても、それを受け入れるかどうかは自分にかかっているのです。だれのどんな意見に対しても、それにどう対処するかは自分で判断しなければならないのです。そうだとすれば、できるだけ基礎的なことから情報を照査しながら、自分で判断できるように、常識をさえ疑ってかかることから始めなければなりません。
今の世の中の常識や伝統は誰が作りましたか。それらが時代や地域によって異なるのだとすれば、それらも決して不動のものではないと知るべきです。多くの専門家という人々も、専門家を育てる専門家集団によって作られた人々ですから彼らの言うことが正しいとは言えません。
前にも言いましたように、多くの専門家や知識人や宗教が教えてきた内容が間違っていたということは歴史が教えてくれる事実です。
よく引き合いに出しますように、百年ほど前までの天文学の専門家たちは、宇宙には一つの銀河があるだけだと考えていたのです。真実を知ったからとてぼくらの生活には変わりはないと思うでしょうが、そうではありません。専門家が勘違いしていたという事実を知ることができるからです。そういう現実がいっぱいあったことを知ることは、ぼくたちの生活に直結します。専門家の言葉に惑わされず自分で考えることが重要なのです。
専門家が作った常識は専門家の常識でしかありません。今までの歴史の中で起こってきた事実は、荒唐無稽な理論よりも信頼に足る基礎事実です。そういう確かな基礎がぼくたちにはいっぱい用意されているのです。
【ぼくたちは】
イエスが批判なさった律法学者やファリサイ派の人々も、律法主義に関する専門家でした。
これに反して、福音書の著者マルコは、かなりの能力をもっていたことは確かですが、けっして専門家ではなかったはずです。
イエスの行状を後代に伝えてきた民衆も専門家ではありません。このような普通の民衆が見聞きしたイエスの生き様こそが、専門家の教えよりも重要だったのだと言えます。
ぼくはマルコ福音書を読むことによって、このような一般庶民の見聞きしたことが重要なのだと知ることができました。今では、キリスト教の専門家たちが教えてきた多くの事を受け入れられなくなりました。それは、素人の書いた福音書が伝えていることと多いに異なっていることに気づいたからです。
専門家が組織化した教会の存続が重要なのではありません。たとえ、二千年の教会の伝統に逆らうことになったとしても、イエスが伝えた福音の生き様に目を凝(こ)らし、イエスが伝えた福音の中を生きる者になろうと思っています。水の上を歩く信仰なんて持っていません。そんなものが無くても、このままのぼくが愛されていることを、イエスが気づかせてくださったからです。