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「義務じゃ続けられません」20200920

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「義務じゃ続けられません」20200920

聖書 出エジプト記二十章節〜十一

 

 この数ヶ月間に時を前後して男性が二人、教会においでになりました。お二人には、昔から教会で教えられて来た事が腑に落ちなかった、という共通点がありまもう一つの共通点は、ホームページやユーチューブの説教動画興味を持った、ということです。しばらく、ここに通って、ぼくの説明を聞いてちょっとすっきりなさったように感じております。

 しかしぼくの話を聞いていくうちに、神は人間が作った神話のキャラクターである、などということまで聞かされて、ちょっと戸惑ってしまわれた、というのが実情だろうとお察し致しております。

 もしも神がいないのであれば、またキリストが人間の罪を贖(あがな)ったのでないとすれば、教会に集まって讃美歌を歌って礼拝することに意味はないのではないか、という戸惑いの声も聞きました。正直なところぼくもそう思いますしかしそう思う、とだけったのでは、今まで教会を支えて来られた方に失礼ですので、なぜいまだに教会の牧師を名乗って、礼拝を続けているかということを話させていただきます。

 

【礼拝式に関する規定はない

 とりあえず礼拝とは何なのかということを定義しようと思いましたけれども、これがなかなか難しいことです。そこで、一般的に、礼拝とは、神仏を敬って礼儀を尽くすことだと言っておきます。

 教会では日曜日に礼拝式をしておりますけれども、これも、こうしなければならない、という命令などは正直なところありません。

 聖書の中だけではなくて、膨大なインターネットの情報を探してみましたが、ピッタリ当てはまる回答を見出すことできませんでした。

 創世記の世界創造物語の中では、創造主が七日目に休まれたから、この日は聖なる日として、休まなきゃならない、という程度のことが書いてあるだけですし、モーセの十戒の中でも、安息日は聖なる日として何の仕事もしちゃならないことが書かれているだけで、礼拝はどのようにすべきだ、などとは書かれておりません。七日目は最も厳かな安息日(土曜日)で聖なる集会の日(レビ記二十三章三節)であるという記述があるからでしょう。ユダヤ教の礼拝土曜日です。キリスト教ではキリストの復活が日曜日だったということから、日曜日に礼拝式をするようになったんでしょう。実際のところ、宗派や教派によって、曜日も形式も様々です。ということは、作法にも明確な規定はないということです。

 ぼくは、洗礼を受ける前に、クリスチャンになる準備勉強会に参加しなければなりませんでした。その時に、クリスチャンになれば日曜日礼拝式には必ず出席しなければならないのだ、と義務であるかのように教えられたんですが、そうではないようですから、ご安心ください。

 実際、クリスチャンになっも、礼拝に参加されない方は多いのですが、その行為は決して聖書の教えに対する違反じゃありません。それを自覚しておられのかどうかわかりませんが、命令であろうがなかろうが、礼拝式に参加する人欠席する人もいるのが現状です。どちらにしても、心配せずに、ご自分でお選びになったらいいと考えています。

 礼拝式を休まなかった方せっかく今まで休まずに礼拝式に参加して来たわたしはどうなるのって、ガッカリなさる必要ありません。あなたはそういう生き方を選んできたことに誇りを持っていただきたいと思います。

 

礼拝式は文化である

 現実を見れば判通り、義務であろうがなかろうが、従うも従わないもその人次第です。命令違反に対する懲罰への恐れから、命令に従う人はいますけれども、罰が軽いとか、無視することができる程度であると解れば、ほとんどの人は従いません。人は所詮、命令に従いません。ですから、命令によって人を従わせようとすることも、命令に従うことも愚(おろ)かなことです

 今まで、礼拝式欠かさなかった人でも、よく考えてみれば、命じられたからそうして来たんじゃなくて、必ず、自分の意思によってそうなさって来たはずです。が重要なんです

 礼拝式を続けてくださった方がいたお陰で、ぼくも聖書に触れることができましたし、イエスを知ることができました。礼拝式は人間の文化として大切なものである、とも言えます。しかし、礼拝式の形式も時代によって変化して来たように、聖書の読み方も変化して来ました。ぼく自身、昔に教えられたままに信じて行動するというようなこと、徐々に、できなくなりました。なぜなら、教えられて来たことに自覚的に取り組むようになったからです。

 

【形は似ていても中身は違う】

 今もなお礼拝式をするために、ぼくは日曜日に教会に集い讃美歌を歌い祈り説教しています。見かけは昔と同じように見えるでしょう。しかし、内容は昔の礼拝式とまったく異なっています。少なくとも自己理解では、そうです。

 讃美歌の言葉、自分で変更するようになったのは、昔からのキリスト教の教義に沿った言葉では歌えなくなったからです。説教の内容も昔からの説教とはまったく異なっています。祈るという行為も、天のどこかにおられる神に対して語りかけているんじゃありません。感謝や願いを、目の前に共に集っている方に、投げかけております。

 確かに、昔から慣れ親しんだ形に影響されています。けれども、昔からの儀式的な教会をイメージしてこられた方は、形だけ見てもびっくりなさるはずです。とは言え、教会の礼拝式という形をまったく無視して新しい形式を創造することには抵抗があります。とにかく、自分が生きていく中で、そのままじゃやっていけないこと、変えなきゃやっていけない感じたことを、できることから変えているつもりです。きっとイエスも、そのような生き方をなさったんだろう、とは理解しております。

 ユダヤ教の教えの中では、自分が生き生きと生活できないという事実があったから、そこから逃れるために、イエスは、聖書を自分なりに解釈し直しなさったんだと思います。それが同時に宗教の下で、抑圧されていた人を救うことに繋がったでしょう。イエスは新しい宗教団体を作ろうとはなさいませんでした。を新しくすればいいんじゃありません。

 

【なぜ教会に集まるのか】

 映画を見ていても、映像で表現されていることの意味に気づく人と、気づかない人がいます。小説でも字面(じずら)を読んでいただけでは著者の意図がわからないものです。新聞でも雑誌でもそうです。

 ましてや、聖書は古典です。一人で読んでいただけでは著者が何を言おうとしているのかを理解することは難しいと思います。だから、教会に集まって読む必要があるんだと考えています。

 考え方の異なる人が集まって聖書を読むことの意義は、いろんな意見を聞いて、考え直す必要があるからです。そういう意味では、牧師が講壇から一方的に教えるだけでは片手落ちです。牧師の意見を聞いたあなたが反応して意見を述べるという相乗効果によって、互いに深められていくことができれば、喜ばしいことです。そのために週に一度くらいは教会に集まることは必要ですちなみにぼくたちは、できるだけ二回集まります。一回は日曜日の礼拝式で、もう一回は木曜日の聖書楽講座です。聖書楽講座は、学問的に聖書を解説する講座じゃありません。聖書を楽しく読めるようにするためのセミナーのようなものです。

 その週の説教のプリントを読んでもらうことで、話し合いの切っ掛けを作っています。牧師の話に異論を唱えたい人が当然いますから、そういう声を出してもらって、みんなで話し合うことに意義があります。話し合いの中で、次の説教を作るヒントが浮かんでくることが多々あります。そんなことを十五年も続けてきました。というよりも、このような流れができたから、十五年間も説教を続けてくることができたんです。

 週の初めの説教を、文書として読んでもらってから、話し合いを始める聖書楽講座が生まれたのは、瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が出てきたようなもので、偶然の産物です。

 ぼくが牧師になる前から、木曜日には祈祷会という集会がありました。そこでは、礼拝説教とは全く違う聖書箇所が選ばれていて、聖書研究と呼ばれている勉強の時間があったんです。

 日曜日の説教を作るだけ、精一杯なぼくが、その他に全く違う聖書の箇所を研究することなどできないと判断しましたし、一週間準備した説教が、日曜日の朝の二十分ほどで消えていくことが虚(むな)しいと感じていました。それならば、説教原稿を読んでもらって、それを題材に話し合ってもらおう、と考えたんです。これによって、説教を作ることに一週間専念できるようになりました。それだけではなく、一週間かけて作った説教、右の耳から左の耳に抜けたとしても、もう一度目から入ることによって起こる反応を聞き出すことができるようになりました。しかも、日曜に来れなかった人も文書で受け取ることができるようになったんです。

 ぼく自身の怠惰(たいだ)な気持ちが、一石二鳥どころか三鳥の結果を生んだわけです。瓢箪から駒という意味がお判りいただけたでしょ

 何を言いたいのかはっきりさせておきましょう。集まって、題材について話し合うことは、人間関係に取って必要であり、とても有益なことだということです。

 取り留めのない世間話もいいですけれども、そんなことは、聖書楽講座の前後にも、日曜礼拝式の後の茶菓の時間にもできます。そうではなくて、テーマを持って話し合うことは、他人の考えを聴き、自分の考えをまとめ、発表するという、人間関係構築のために必要な技能を育てるためには必要なことです。現代の社会でも、教育でも、そういう話し合いが少ないために、幼稚な考え方に孤立してしまう人が多いのだろう、と感じています。

 ですから、西野バプテスト教会のような自立した集まり(アソシエーション?)は多くの人にとって有益なはずです。他にそういう場を持てる人はそれでいいと思いますが、ぼくにとっては、この教会以上に、有益なありませんこの教会は自分にとって大切だと思うから大切にしているんです。神の命令に従っているわけじゃありません。

 

【ぼくたちは】

 一週間に一日を聖別せよという安息日規定の言葉は、どんな労働者にも、一週間に一日みを与えよ、という先祖たちの知恵の言葉です。一週間に一日は神を礼拝せよという命令じゃありません。

 どうせ、命令されても従わないでしょう。命令に従うほど、ぼくたちは柔(やわ)じゃありません。「毎週礼拝せよ命じられたから集まっているわけじゃなくて、ぼくらは、何かしらの魅力を感じるから、集まっているはずです。たとえ義務だと言われても、集まりたくない人は集まりません。義務なんか課せても無意味です。それが現実ならば、気が向くまま、あるがままに集まって、自分たちができる礼拝式をすればいいと考えているんです。

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