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「こらがイエスの福音だ」20221120
「こらがイエスの福音だ」20221120
聖書 マルコ福音書 二章一節〜十二節
普段の生活において、ぼくは得意なことだけをして、得意でないことはしないように心がけております。苦手なことは嫌ですから、すぐにやめてしまうことを自覚していますので、嫌なことはしないように努力しているわけです。努力することじたい苦手ですが、なぜか、嫌なことはしないという努力だけは続けることができているのでございます。
みなさんはどうですか、得意なことをおっしゃってくださいと要求されてすぐに答えられるでしょうか。これだけは得意だから、わたしに任せてください、と言えるものがあるでしょうか。キッパリ言える人は少ないはずです。ですから、みなさんに代わって、ぼくが全般的なことを言っておきましょう。人間が得意なことは「本質を見誤る」ことだと思います。言われてみると納得する方が多いんじゃないでしょうか。納得できないとおっしゃる方は、ご自分の本質を見誤っておられるに違いありません。
【見誤っている人が多い】
先日、ある大手スーパの食品売り場を通りましたら、クリスマスプレゼント用の大きい銀色の長靴が並べられておりました。いくら何でもちょっと早すぎます。販売の企画者が、本質を見誤っているんでしょう。クリスマスが近づきますと、このように、せわしなくなるので嫌です。教会でも四週間前からアドベント(待降節)と称しまして、浮き足立って、イエス誕生祭の準備に気持ちが向かうために、イエスの福音の本質を語ることが忘れられているようで嫌になります。
ですから、十二月に入る前に、今週と次週はしっかりと、イエスの福音をお伝えすることにいたしました。という訳で「これがイエスの福音だ」と題して説教させていただきます。
【自分の口で言えるほど聴いてほしい】
今日選んだ聖書の箇所は、今までに何度もとりあげておりますから、またあの話だなと思われるのは判っているのですけれども、ここには、この福音書の著者マルコが伝えたかったイエスの福音の核心が綴られておりますので、暗記するほどに聴いていただきたいのであります。
判ったつもりでも、あなたの理解を説明してほしいと言われれば、なかなかできるもんじゃありません。ですから、何度も確認して、イエスの福音を自分の言葉で説明できるくらいに理解していただきたいのです。それくらいにならなければ、自分の意見を他人に伝えることなどできませんし、反対する人に答えることなどできません。伝統的な教えに流されないために、腑に落ちるまで、自分の心に落とし込んでいただきたいのであります。
【いやしが中心ではない】
さて、今日読んでいただいた聖書物語の前には「中風の人をいやす」という小見出しが付けられております。小見出しがあって、便利な面もありますものの、内容把握の邪魔になるという負の面を見過ごすことはできません。「中風の人をいやす」という今日の小見出しも、マルコが伝えた主題から大きく外れていると思います。
マルコの意志に反して、病気が治る奇跡が中心であるかのような小見出しをつけるから、読者の注意が奇跡話へと誘導されるのです。このような洗脳を見過ごすわけにはいきません。小見出しは本文ではなくて、翻訳者の解釈に過ぎません。聖書の言葉を大切にしたいのならば、小見出しに誘導されずに本文を読むべきです。
【病人は罪人だと認定されていた】
今日の物語を理解するためにはまず、この物語の背景を知っておく必要があります。
どんな病気であっても、病人は神に対する反逆者だと解釈されていました。反逆者であるからこそ病気にさせられているのだというのが当時の一般人の理解でした。すなわち、病人=罪人であったわけです。
伝染病ならばなおさらのこと、罪深い病人に関わりたくないというのが本音です。ところが、先週話しましたように、病気を治してくださいと素直に言うことさえできずに「あなたが望んでくださるなら、わたしを清くおできになります」などと遠回しにしか表現できなかった「らい病人に」イエスは手を差し伸べて触ったというのです。伝染病として当時最も忌み嫌われていた「らい病人」をイエスは排除しませんでした。それどころか、病人に深く関わったんです。これにはイエスの近くにいた人々も非常に驚いたことでしょう。しかし、もっと驚いたのは、その病人に触って、真実を知ったイエスのほうだったと解釈しました。イエスはその病人がらい病でないことを確信したのではないでしょうか。ですからイエスは躊躇なく、「清くされなさい」と告げました。それは、あなたを「らい病」だと認定した祭司のところに行って、あなたがらい病でないことを証明してもらい、自他共に認める「清い者」にしてもらいなさい、という意味です。今日の病人は中風の男ですが、社会から罪人と認定されていたことは確かです。このような社会では、他人がこの人を罪人だと認めていることだけが問題なのではありません。罪人だと言われ続けていたために、自他共に罪人だと認識していることが問題です。現在でも同じですが、差別されている人が、その差別を受け入れてしまっている現実が大問題なのです。
このような社会認識に対立して、イエスは、病気であることが罪の結果などではないと明確に考えておられたようです。
四人の男に連れて来られて、イエスの前に戸板ごと吊り下ろされた男を見たイエスは、男に向かって「君の罪は赦される」と即座に告げました。社会から罪人扱いされていたことが、この男にとって即座に解決しなければならないことだとイエスは受け止めたからでしょう。
もう一つ、見過ごしてはならないことがあります。それは、イエスが言葉を発する以前に、中風の男を受け入れていた男たちがいたことです。病人を運んできた四人は、この男の病気を治してもらいたい一心だったのです。つまり、彼らはこの男に罪など認めていなかったから、中風の男を運んでくることができたのだと思います。イエスは、四人の意志と行動を十分に受け止めて、まず、中風の男に「君の罪は赦される」と明言しました、その後に「起き上がり、床(とこ)を担(かつ)いで家に帰れ」と言ったのです。
【ぼくたちは】
イエスは、病気と罪が無関係であるという事実を示すために、大マジシャンがするような大掛かりなパフォーマンスをして見せたのかもしれません。このように解釈することは罪深いことでも不信仰でもありません。イエスがなさったことが、奇跡ではなくてパフォーマンスであったとしても、病気と罪が無関係であるというイエスの考え(真実の情報)を伝えるには十分でした。マルコの意図もここにあったのでしょう。病気と罪の関係を認めない人間イエスにとって、中風の男に「君の罪は赦される」と宣告することなど朝飯前でした。物語の展開がこれほどはっきりしているのですから「中風の男をいやす」などという頓珍漢(とんちんかん)な発想に惑わされず、病気と罪は関係ないというイエスの考え(解釈、まことの情報)を受け止めて、あなたも罪に苛(さいな)まれずに、元気に立ち上がってくださいますように願っております。