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「生き様を検閲させない」20231001
「生き様を検閲させない」20231001
今日も説教いたします。毎週聞かされるみなさんは大変でしょうが、説教を毎週作るぼくの身になってください。大変なんですから、かわいそうだと思って、しっかり聴いてください。また、笑えるところがあれば、遠慮なく笑ってください。
それにしても、教会で毎週説教しているぼくを見れば昔の友達はびっくりするはずです。なにしろ、ぼくは学校の勉強は適当に済ませることに小学校二年生で決めていた生徒だったからです。
教育は人を作ります。誰から何を学ぶかによって、人生は変わるのです。それほど教育は怖いものです。中途半端だったぼくも西南学院大学で青野太潮先生の授業を受けたことで人生が変わりました。ぼくは教育の最終段階で救われました。
【学習する内容が大切】
先の大戦後、占領軍は日本の教育改革を始めました。それまでの教育をやめさせて、アメリカに都合の良いことを教えることにしたのです。
教科書を新しくする暇もなかったので、戦時中に子どもたちが使っていた教科書から戦意高揚に繋がると思われる箇所を墨で塗り潰させたのです。教科書も新聞も一般書籍もすべて「検閲(けんえつ)」されたんです。検閲とは、権力が事前に強制的に調べることで、憲法が認めていない行為ですが、実施されたんです。
今も、検定に合格した教科書しか学校での使用を認められていません。
昭和四十年に、高校日本史教科書の執筆者である家永三郎さんが、教科書検定は政府による「検閲」であるとして国を訴えた裁判がありました。結果は、一般図書として販売もできるし、発表前の審査もないのだから検閲じゃないという判断が示されましたが、検定に合格していない本が売れるはずありません。政府が認めた歴史しか教えられないように意地悪しているのですから、実質的には検閲だとぼくには思えます。
隣国では、国境や島の名前も勝手に書き換えて教えています。権力者が教えたい内容だけを教えるのが検閲です。だれが考えてもおかしいと判るはずです。教育水準のばらつきを無くすために、検定は必要だと言いますけれども、現実の教育成果はバラバラです。検定教科書で教えられて、覚えがいいかどうかで判断されるなんておかしい、と今なら反論できますけれども、当時は反論できませんでした。しかし、幸いにも、教えられたままを覚える能力が低かったので、ぼくは頭の芯まで公教育によって洗脳されることはありませんでした。記憶力が悪かったお陰で、ぼくは独創的な発想を今もすることができるのです。記憶力の良い人ほど教育の影響は大きいはずです。一度刷り込まれた教えに反発するのは難しいのです。教育とはそれほど怖いものです。
それにしても、人間性も知らない著者や検定員が残した本を、よくも無批判で使っているものだと呆れます。しかも昨日まで覚えさせられた内容を、今日は墨で塗り潰せ、なんて言われる可能性があるものを信頼してはなりません。
【聖書も検閲されていた】
宗教教育の正典である「聖書」も宗教組織の権力者が検閲した文書集です。ローマ皇帝が招集した教会の公会議で認められた文書の集合体です。これだけ聴いてもおかしいなあと思うでしょう。内容がズレていても、福音書は四つも奇跡的に残されましたが、撥(は)ねられた文書もあります。
こんな言い方をしたことありませんけれども、実は、キリスト教徒が教えられ、大切にしてきた聖書は検閲に合格した文書集なのです。
カトリック教会とプロテスタント教会がそれぞれ編集した聖書は内容が異なります。時代によって翻訳本も変化してきましたから、教えられたことをそのまま受け入れるなんてことは、理論的にも無理です。
【信仰告白も検閲されていた】
教えられたことをそのまま信じるようにと教えられた信仰告白も、検閲した組織によって内容は異なります。バプテスト教会は、個人の信仰告白を重視することになっていますけれども、皆さんも発表する前に牧師に添削してもらったはずです。もしも、信仰告白に足りない内容があれば、書き加えるように指導されたはずです。これって検閲だと思います。みなさんはどう思いますか。
信仰告白に定型があるのだとすれば、今日の物語に登場した女に、そんな信仰はなかったと言えます。もちろん、生前のイエスと女の会話ですから、イエスの十字架と復活がなかったのは当然ですが、教会が教えている信仰がなかったことは間違いありません。それどころか、病人であった女は、伝統的律法解釈によれば、罪人だったのです。
【イエスは検閲よりも人を大切にした】
そんな女にイエスは「君の信仰が君を救った」と宣言したのです。差別されている現状から女を救い出すためには、これが一番良いとイエスは思ったからでしょう。
イエスは、律法の専門家たちと論争したかったのではないと思います。そんなことになれば面倒です。イエスは、論争を吹きかけられたり、批判されたり軽蔑されたかった訳ではありません。けれども、虐(しいた)げられた女を救うためには、罪人だと決めつけられていた女に信仰を認め、最大限に褒めてあげるのが一番良いと思ったのでしょう。これは、古くから続けられてきた律法解釈の慣例に従って人を裁いてきた律法の専門家たちと完全に対立する振る舞いでした。
イエスは律法解釈の慣例に従って人を裁かなかったのです。宗教の権力者の検閲に合格した律法によって生身の豊かな人を裁くことなどできないと知っていたからです。だから、イエスは慣習を破って、この女を信仰深い人として扱ったのです。これこそイエス自身がたどり着いた、生身の人に寄り添うイエスの生き様です。権力者が検閲した伝統的律法解釈に頼ることなく、イエスは相手の必要に応えたのです。だから、女はその場でイエスに救われました。
【ぼくたちは】
聖書の正典をカノンと言いますが、定規のことです。指導者たちが伝えたいことだけを書き留めるために検閲された律法を定規のように使って、人を計って、善悪を決めることなど許されることではありません。誰が定めたのかも判らない定規で人を計るべきではないのです。
ぼくたちを出来の悪い罪人に定める法律があるとすれば、そんな律法を検閲して合格させた権威者こそが悪いのだと理解すれば良いのです。イエスなら、あなたやわたしの生き様を検閲などしないでそのまま認めてくださるに決まっています。