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「赦しは必要ない」20230702
「赦しは必要ない」20230702
聖書 ルカ福音書 十五章十一節〜三十二節
先週は民衆を代表する仕事をすることによって民衆を守るべき祭司やレビ人が、自分の職務を守るために傷ついている人を見て見ぬ振りをして助けなかったというイエスの譬え話を読みました。世の中では、今も同じような事件が起きています。先週はストーカーになった元彼に女性が殺されました。何度も警察に相談していたのに、警察が中途半端な対応しかしていなかったからです。殺された女性の隣人になってくれる人がいなかったのです。また、小学生が家族に殺された事件もありました。児童相談所か何か知りませんが、身体に虐待の痕跡があった子を、保護しなかったために殺されたのです。こんな事件が起こってから調べるのが警察や相談所の役目ではありません。事件が大きくなることを未然に防ぐのが本当の役割なのです。人を助けるべき仕事に就いている人はもっと誠実に職務を遂行してもらわなければなりません。
今日取り上げます譬え話は、殺人に至るような物語ではなくて、どんな家族にも起きる家族間の気持ちのすれ違いから起こった出来事です。
よく言われているような「神の愛と赦し」をテーマにした譬え話ではなくて、人間関係のすれ違いをテーマにして、イエスが作った譬え話だとぼくは考えております。
【罪の赦しについては書かれていない】
司会者に読んでもらった聖書の箇所は、「放蕩息子」の譬え、として知られています。チャットジーピーティーは「イエスが、神の愛と赦しのメッセージを伝えるために語った物語と捉えられてきました」と説明してくれました。多くの情報を集積したAIがこのように答えたということは、多くの人が、この譬え話の主題を「神の愛と赦し」であると考えていることを示しています。ところが、昔からのこのような解釈にこそ、大きな勘違いがあるとぼくは言いたいのです。そこで、今日の説教を通して、今までの大きな勘違いを考え直してもらおうと思っています。
ぼくが言いたいことをまず結論から申し上げます。「赦しは必要ない」という説教題にしたことで、すでにお気づきの方もおられるでしょう。この譬え話には「親の愛」が強調されていますけれども「神の愛と赦し」などについては書かれていません。「罪の赦し」をイエスはまったく教えておられないというのがぼくの考えです。
この譬え話から「罪を告白して赦して貰えば神の子とされて、神の愛を受けることができる」というような説教をする専門家が多いですけれども「罪を告白して、赦してもらわなければならない」などとはこの譬え話には全く書かれていません。ですから、ぼくは多くの専門家や信者さんの意表を突いて「赦しは必要ない」という題を付けたのです。罪を赦してもらわなければならないという理解は、単なる思い込みです。
【親子の譬え話】
それでは、譬え話を具体的に見ていきましょう。何度も言いますように、これはイエスが創作した物語であることを忘れないでください。
さて、おもな登場人物は、父と二人の息子の三人だけです。母親が見当たりませんけれども差別を意図しておりません。
資産家のお父さんに、勤勉な働き者の長男と怠け者で問題児の次男が登場します。ドラマにもよく使われる状況です。
ある日、次男が財産を分けて欲しいと言い出します。その時代に生前贈与という制度があったのかどうか判りませんけれども、とにかく生意気なやつです。
叱りつけてもいいと思うのですけれども、なんとこのお父さんは、次男の求めに応じてやったことになっております。
働きもせずに財産を手に入れた次男は、予想通り、遊興(ゆうきょう)に明け暮れ、簡単に全財産を使い果たしてしまいます。当時の最貧困層の立場にまで堕ちてから、ようやく自分のアホさ加減に気づきます。そこで、裕福な実家のことを思い出して、雇人の一人に加えてもらうつもりで帰って来るわけです。追い払われると考えていないのですから、虫のいい話です。
ところが、父は遠くにいる次男を見つけるや否や、走り寄って迎え入れたというのです。父が次男を元通りの立場に据えたことがわかる描写がいくつも示されております。
ちょっとやりすぎのようで、現実にはあり得ない譬え話だと感じた人が、なんとか説明しようと思って色々な注釈をしています。
しかし、この譬え話は、歪められた内容ではありません。むしろ、現実にあり得るにも関わらず、けっして現実にはあり得ないと決めてかかっている聞き手の心が歪んでいるのです。
【思い込み・先入観】
自分を抱き止めてくれた父に言った次男の言葉を見ますと「わたしは天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」などと自己評価を口走っています。しかし父は次男の言葉を無視して、次男に晴れ着を着せ指輪をはめるように使用人に命じました。
多くの人が勘違いしているのは、次男が「天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と自分の罪を認めて悔い改めたから、次男は赦してもらえたのだという考え方です。
「悔い改めなければ赦されない」という考え方が前提として刷り込まれているから、次男は悔い改めたから赦されたのだと思い込んでいるのです。しかしこの譬え話をよく読めば、父は次男が遠くにいるうちに走り寄ってハグしたと書かれています。父は、無条件で次男を受け入れているという意味です。
この譬え話を聞いている多くの人は、ろくでもない次男を初めから罪人だと決めているのでしょう。詫(わ)びを入れるまで赦されない。たとえ謝罪しても赦されないのが普通だと思っているのです。そんな次男を赦す父は神の愛に溢れた人だ、などと勘違いしてきたことでしょう。しかし、そうではありません。どんな状態の息子も、父の愛する息子なのです。勝手な要求をして出ていった次男を父は罪人にしていません。そんなことを罪だと認めていないのが本当の父の姿なのです。父に歯向かうものは罪人であると多くの人が判断しているのは、そのように教えられて来たからです。
【ぼくたちは】
次男を罪人だと決めつけていない父が、どうして次男を赦す必要があるでしょうか。父と息子の関係に赦しなんか必要ないのです。
罪の告白なんか聞く必要ありません。息子がどんな状態であっても変わらずに父が息子を大切にしているということが、父が息子を愛しているということなのです。
「忘れ得ずして思い出さず」という言葉を高校の古典の授業で習いました。忘れずに覚えているのは、これ一つです。「離れてからも、わたしを思い出してね」と言った女性に、男は「忘れることができないから思い出すこともない」と答えたのです。すてきでしょう。
何もできない赤ちゃんを親は愛しているのです。罪を認めていないから赦す必要もないのです。「罪認めずして赦し得ず」なのです。「赦しなんか必要ない」というのが、イエスが教えてくださった福音の真髄です。