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「地の民がイエスを復活させる」20240317
「地の民がイエスを復活させる」20240317
聖書 マルコ十六章一節〜八節
多くの民衆を惹きつけているイエスの活動の噂を耳にした領主ヘロデは、「あれ(イエス)は私が首を刎ねた、あのヨハネが生き返ったのだ、と言った」とマルコは伝えております。
領主と呼ばれるような権力者は、民衆を恐れさせていますけれども、同時に、自分に立ち向かってくる民衆の蜂起(ほうき)を恐れているのです。蜂起の「ほう」はハチという字です。蜂の巣を突いたように群衆が一斉に行動を起こすことが蜂起です。民衆をうまく統制している間はいいのですが、権力者が調子に乗りすぎて、好き勝手なことをしだすと、ちょっとした出来事を引き金に、民衆は蜂起するものです。民衆を蜂起させないために、支配者と言えども、自粛を学ばねばなりません。サロメの物語を見る限り、バプテスト・ヨハネに対する粛清(しゅくせい・反対派にたいする弾圧)は、ヘロデの身勝手が行き過ぎたように思われます。その結果、ヘロデは、自分が首を刎ねたヨハネが生き返ったのだと恐れるようになったのは頷けます。このような心の弱さは、虚勢を張っているすべての支配者に共通しています。
弾圧する支配者を恐れている民衆が、雑草のようにあちこちで立ち上がってくる様子こそが、今月末に予定されている復活祭(イースター)の「復活」の真の意味です。
【マルコとその他の福音書】
マルコを除く三つの福音書には、殺されたイエスが、まるで息を吹き返したかのように、弟子たちの前に登場します。このような物語を読まされて、その経緯を牧師から細かく説明され、聖書に書かれていることをそのまま信じなさいと教えられて、本当にそのまま信じ込んでいる信者も多くおられます。ガッカリさせて悪いのですが、殺されたイエスは二度と起き上がってきません。
福音書の中で最初に書かれたマルコ福音書には復活したイエスが弟子たちに姿を現しません。その他の福音書(マタイ、ルカ、ヨハネ)では復活のイエスは弟子たちに姿を見せます。ここが全く違うということから、三つの福音書はマルコのイエス解釈を否定するために書かれたことが判ります。各福音書の著者たちが、それぞれの考えでそんなことをした可能性もありますが、むしろ教会組織が、自己弁護するためにマルコに対抗する福音書を書かせたと考えたほうが筋が通ります。そうだとすれば、マルコ以外の福音書の著者たちは、御教論を説く御用学者です。そのようなことは、いつの時代にもあるのです。現在の政府の政策を後押しするために、政府の都合がよくなる考えだけを国民に吹き込む御用学者と同じです。
そこまで汚い仕事をする人がいるはずはない、と心優しい多くの国民は考えるでしょう。しかし、今の政府を運営している人々の実態が見えてくると、ぼくの説明もまんざら嘘じゃない、と感じていただけるはずです。
国民に奉仕するために選ばれたはずの議員たちが、自分の地位の保全と金儲けのために、考えることもはばかるような悪事に手を染めていることが明るみに出たように、これが人間社会の実態です。国を運営している組織も、宗教を運営している組織も、作っているのは同じ利己的な人間です。宗教家だけが聖人であるはずありません。
キリスト教会を権威づけるために、教会を作ったのはイエスだとマタイは書いていますが、そのイエスをキリストにしたのは教会です。つまり、教会は自分で自分を保証しているだけです。イエスは伝統的なユダヤ教の権威を批判しました。そんなイエスが、自らキリストになって権威を主張することなどあり得ません。
【地の民は権力で変えられない】
さて、自分の権威を主張する支配者に対して、いつも権威に踏み潰されているようでありながらも消えずに続いているのは、地を這うように生活している民衆です。政権がどれほど代わろうが、形を変えて生き続けているのが民衆です。ウイルスみたいなもんです。
ぼくたち民衆は、空虚な権威に頼らずに、自分たちの生活そのものを大切に、地を這うように生き続ければいいんです。そんな民衆の生活に、本当の価値があるからです。中でも、どんなに悪い状況でも、こどもを産み育てる事を第一にするような自己犠牲的な生き方が染み込んでいる「女」が最も強いと思います。世界を救うには、そんな女の感性が必要です。組織や力や権力に目を奪われる男の感性で世界は救えません。マルコ福音書の著者は、イエスの復活を取材することによって、女の偉大さに気がついたようです。
【本当の主役は女たち】
十字架上で息を引き取ったイエスを看取り、葬られる墓を確認し、イエスの遺体に香油を塗るために、日曜日の朝早く墓に向かったのは女たちだけでした。墓の中にイエスの遺体を見つけることができなかった女たちに天使が現れて、「あのかた(イエス)は復活させられたからここにはおられない」と告げたと書かれています。遺体がなかったことは事実であったとしても、女たちが天使の声を聞いたというのはフィクションです。
いずれにせよ、そこにいたのが女たちだけだったという事実が大切です。イエスが復活したという知らせを聞いたという記事の意味は、女たちはイエスが復活したという考えに行き着いたということでしょう。しかし、女たちはその考えを弟子たちに伝えなかったのです。ガリラヤで会えるという天使のお告げがあったとしても、女たちが弟子たちに伝えなかったならば意味ありません。何も知らされなかった男たちは何の役割も果たしていないというのがマルコが伝えたかった事実です。
【ぼくたちは】
ヨハネの生き返りだと言われたイエスのように、イエスが復活したのだと言われるのは、すでにガリラヤで活動している誰かであって、エルサレムに残っていた弟子たちではないのです。
師匠だったイエスの遺体確認さえしなかった男たちは、イエスの復活にも関与できませんでした。イエスが生きていた時のように、ガリラヤで活動している人がいることに気がついたのも女たちだけです。つまり、男たちが作った教会はイエスと関係がないのです。大切なのはイエスのように生きることです。それを実践しているのは、地を這うように生活している地の民なのです。
権威のない地の民こそ、復活のイエスになり得るのだとすれば、ぼくたちは、教会に頼ることなく、自信を持って、地を這うように生きて行けばいいのだと思わされているこの頃です。